「素地」のその前

「素」という漢字が単独でいきなり出てきたら、何と読めばいいのか戸惑う。「す」か「そ」かと推し量るしかない。しかし、「素」はおおむね熟語として使われるので、必然読み方が決まる。「素のまま」なら「すのまま」だ。そうそう、「もと」とも読む。味の素を筆頭に、炒飯の素、わかめご飯の素、冷や汁の素などがある。

関西ではかけうどんを「うどん」と言う。うどんに具を加えないという特徴を現している。素うどんは料理の名。茹でたうどんに出汁をかけるだけで何も足さない。とは言え、薄いかまぼことネギくらいはあしらってある。素を「そう」と読ませるのは全国区の素麺。うどんも素麺も素朴な食べ物であって、高級感を引き算するのが常。

素に近いのが「」。顔や肌と言うだけでは化粧しているかしていないかわからないが、素顔や素肌と言えば何も足していない。加齢しているから、生まれつきのままとは言いづらいが、うどんでたとえるなら「打ちたての生地のまま」というところか。ともあれ、素と地が一つになって「素地」が生まれた。壁は素地が肝心、学問や芸事は素地次第、商売は素地がすべて……などと並べてみると、基礎や基本や原初などの意味が浮かび上がる。


運よく素地に辿り着いたとして、そこで満足せずに、その素地の前にはどんな素地があったのかと考えるむきもあるだろう。「始まり」があるのなら、始まりの前があったはずだ。しかし、そんなことは誰にもわからない。わからないから定義によって意味を限定して妥協する。『ギリシア文明の素地』を学者が著したら、その学者が遡ったところまでが素地なのだ。その素地の素地が何かまで詮索してもキリがない。

「水が原初である」などという説は世界中にある。「万物の根源は水」と説いたのは、ソクラテス以前の哲学者タレス(紀元前625年~547年頃)。根源が水というのは説であって確証ではないが、考えても答えが出ないテーマを探究するという哲学がここに生まれた。素地の素地のそのまた素地を知りたければ研究すればいいが、「宇宙が素地の起源だ」という結論だとがっかりする。そこまで辿るなら自分でもできる。。

ある小説家――たとえばリルケやカフカ――の影響を強く受けたとしても、そこには自分の個性や考えの型や経験が入り混じる。そういう自分色を首尾よく脱色することができれば、おそらくリルケやカフカの素地が現われてくるのだろう。しかし、どんなに頑張っても人間の素地は判別しづらい。うどんの生地を突き止めるようなわけにはいかない。素地はわからない。わからない素地のその前に遡ることに意味があるとは思えない。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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