批評における主語選び

私はこの街に住んでいる」
「私は元気な人間だ」
だから、「この街に住んでいる人は元気である」

書かれた文章を読むと、二つの前提から導かれた結論の危うさがわかる。前提となる文章はどちらも「私」に限った話なのに、結論ではいきなり「みんな」に膨らんでしまっている。この論理の誤りには〈小概念不当周延の虚偽〉という難しい名前がついている。

〈私〉という小さな概念を〈みんな〉という概念に不当に置き換えてはいけない。全体について言えることは部分についても同じことが言えるが、部分について言えるからといって全体にも同じことが言えるとはかぎらないのである。

命題には主語と述語が含まれる。主述関係は論理の基本なので、主語の集合概念の大小をきちんと捉えておく必要がある。書いたらわかるのに、不注意に話したりすると、後になってとんでもないことを喋っていたことに気づく。「つい口が滑ったのではない、常々思っているからそう言ったのだ!」と指摘されてもしかたがない。


女性っていうのは、優れているところですが、競争意識が強い。誰か一人が手を挙げると、自分も言わなきゃと思うんでしょうね。それでみんな発言されるんです。結局、女性っていうのは(……)」(森喜朗東京五輪・パラリンピック組織委員会会長、2月3日、臨時評議員会。傍線は岡野)

「女性は」「男性は」「高齢者は」「今どきの若者は」など、大きな概念の一般主語でデリケートな内容を語ろうとすると誤謬の可能性が高くなる(虚偽を免れるのは、ごくわずかに「人間はみな死ぬ」のような自明の命題に限られる)。

大きな概念の主語でデリケートな問題について断言的に主張すると、「すべてがそうではないぞ!」と反論される。それだけでは収まらず、問題によっては差別・偏見と批判され、この時代ならではのネット炎上を招くことになる。では、「一部の……」と概念を小さくしたり具体的に名前を挙げたりして批評をすれば、極論や虚偽を避けられるだろうか。公開の場なら、一部の人たちや名指しされた人物から当然反論が出てくる。

では、公開の場で「誰々」と言うかわりに、密室で直接会って言ってみるのはどうか。これで世論からは隠れることができるかもしれないが、今度は当の相手から「パワハラを受けた」と訴えられ、公になるかもしれない。覚悟の足りない御仁はあまり慣れない批評などしないほうがいい。

と言う次第で、主語を何にするにしても、批評がしづらい時代になっているようだ。安全な批評は「私」を主語にした、一人反省会のような自己批評だろう。たしかに批評は昔に比べてデリケートになった。しかし、女性や男性や高齢者や若者などの大雑把な括りで、大雑把な物言いをするから問題なのだ。批評を手控えるようなことがあっては中身のある議論ができなくなる。実名による批評は――たとえそれが堅固な世論に向けられたとしても――匿名のネットでのやりたい放題よりはよほど健全なのである。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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