一言多い、一言少ない

知人と道で出会った。少々久しぶりなのに、「こんにちは」や「ごぶさた」だけを交わして通り過ぎたら不自然至極。ことばの不足感を拭えない。もう一言添えないといかにも白々しい。社交辞令っぽいプラスアルファを続ければ済む話なのだが、もう一言が続かない人がいる。一言多めが苦手なのだ。

英米人と仕事をしていた時は、一言多いという印象が強かった。毎日親しく会話していると喋ることが尽き果てるものだが、まるでコミュニケーションが使命かのように何かを話そうとする。沈黙を恐れているのだろうか。一言少ないことに平気なぼくらと違って、一言少ないことのリスクに敏感なのに違いない。

食事のできる喫茶店やグリル何々という洋食店ではショーケースにビーフカツやエビフライのサンプルが収まっている。あれは料理のビジュアル情報である。あればイメージがつかみやすい。

一方、日本でもフランス料理店やイタリア料理店はめったにサンプルを置いていない。フランスやイタリアに行けば店の前や壁に貼り出してあるメニューはほぼ文字情報だ。サンプルも写真もないから文字に頼るしかない。メニューに関する情報は、まず店外で掲示されるのがよく、また、少ないよりも多いほうがいい。


一言多いと指摘されたら、その一言が余計だという意味。その余計な一言が相手の感情を害したり、話を複雑にしたり、舌禍を招いたりしかねない。一言少なくて舌禍を招くことはない。だから、「記憶にございません」は無難なのだ。しかし、一言少なくて理解できなければ苛立つし、言葉少なだと誤解を生む。説明責任を果たしていないと非難される。

一言多いとか一言少ないと言うが、別に「二言三言ふたことみこと」でもいい。「一言ひとこと」は便宜上そう言っているに過ぎず、つまりは饒舌と寡黙のことである。一言多いの一言が余計であるのなら、その時点ですでに批判されている。しかし、余計なお節介もあるわけだから、相手をおもんぱかっての一言かもしれず、念には念を入れての補足という意味もあるかもしれない。

一言多いか少ないかなら、多いほうを取るようにしてきた。勝手なことを言わせてもらうなら、一言多ければその一言を無視するかなかったことにしてもらえばいい。しかし、足りなければ「どうか適当に足してください」などとお願いできない。足りないと相手に考えさせることになるからだ。口は禍の元であり、無口も禍の元になる。批判の的になるのが五分五分なら、一言多めでもいいと思うが、世論はいま確実に口を閉ざさせる方向に動いている。

いま、S社製の空気清浄機が音声を発した。「今日もキレイですね。空気のことですよ」。あなたのことではないと暗に示している。「空気のことですよ」は余計な一言だが、別に目くじらを立てることはない。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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