名画と自宅の壁に掛ける絵

蒐集家でないぼくたちが鑑賞する名画のほとんどは、美術展や図録内での作品である。レンブラントの、たとえば〈テュルプ博士の解剖学講義〉は日常からかけ離れた鑑賞の対象であり、美術館所蔵的な「遠い存在」と言ってもいい。

この名画を自宅の日常的な空間の壁に掛けるとする。その絵は食卓からも見える。来客の目にも入る。テレビを見るたびに、視野の隅っこに見えるかもしれない。昼夜を問わず、在宅しているかぎり、その絵は見える。さて、それでもなお、これまでの遠い存在として抱いていた憧憬が変わらずに持続するだろうか。今や身近な日常的存在としてそこにある絵は、芸術価値を湛えた名画としてあり続けるのだろうか。レンブラントの絵が気に入っていることと彼の名作の一点をリビングに飾ることは、決して同じことではない。

光と闇の魔術師レンブラントの絵画は、古色蒼然とした城の壁に似合うかもしれない。だが、ぼくの住む安マンションでは息が詰まりそうだ。もちろん、作品は不相応な場に飾られて大いなる役不足を嘆くに違いない。しかし、生意気だが、ぼくの方からもお断り申し上げる。どんな絵がよいのか……鑑賞するならどの絵で、飾るのならどの絵なのか……。議論してもしかたがない。月並みだが、好きな絵がよい絵なのである。ぼくはレンブラントの価値を云々しているのではない。資産価値を度外視するならば、自宅の壁にレンブラントを掛ける気分にはなれないと言っているにすぎない。


Antoni_Gaudi_1878

スペインはカタルーニャの人、アントニ・ガウディは地域性(または風土)と芸術性・合理性について明快な私見を有していた。彼は、自分の、そしてカタルーニャに代表される地中海の気質を誇らしく思い、ヨーロッパの他の地域との個性差について次のように語っている。

われわれ地中海人の力である想像の優越性は、感情と理性の釣り合いが取れているところにある。北方人種は強迫観念にとらわれ、感情を押し殺してしまうし、南方人種は色彩の過剰に眩惑され、合理性を怠り、怪物を作る。

ガウディは「本当の芸術は地中海沿岸でしか生まれなかった」と言い切った。この言を受けて、「しかし、北ヨーロッパにもレンブラントやファン・ダイクのような立派な画家がおりますが……」と知人が指摘すると、ガウディは「あなたの言っているのは、ブルジョアの食堂を飾るにふさわしい二流の装飾品にすぎない!」と激しく北方芸術をこきおろした(『ガウディ伝―「時代の意志」を読む』)。地中海主義に比べればレンブラントの絵は暗鬱だと言わんばかりである。

では、レンブラントと同じオランダ人のゴッホをどう説明するのか。ゴッホはフランスのアルル地方の影響を受けて明るいコントラストと力強い画風を確立したではないか。しかし、元を辿ってみると、実はゴッホ自身もオランダ時代には貧民の働く姿をグレー基調で暗く描く作家だった。そして、後年もオランダの暗さと光を称賛していたという。

ところで、ガウディが南方人種として批判しているのは誰なのか。同じスペインでも最南端のマラガ生まれのパブロ・ピカソは標的の一人なのか。晩年のピカソは色彩の過剰に眩惑されていた傾向があるが……。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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