失われた環を探す

企画したり文章を書いたりする仕事では無から有は生まれない。仕事の起点に題材と情報は欠かせない。題材はふつう依頼者が提示するが、時々お任せもある。情報はたいてい依頼者から出てくる。過剰な場合もあれば不足の場合もある。

実は、情報は多いほうが困る。どんなメディアを使うにしても紙数が限られるから、情報を欲張られると取捨選択に時間がかかるのだ。しかも、あれも入れたいこれも入れたいという情報提供者の要望にいちいち寄り添っていくと、どの段落もよく似た内容になりかねない。

他方、情報不足も大変なように見えるだろうが、案外そうではない。企画も執筆も情報は不足気味のほうが、自ら考え類推するのでオリジナリティを発揮しやすくなる。考えたり類推したりするには何か材料がいるから、少しは自分で調べもする。ともあれ、自分のペースで仕事を進められるので、情報過多よりもうんと楽なのである。


企画や仕事では、事柄や概念どうしがつながらず、両者の間に不足や喪失を感じることがよくある。その空白を埋めようとしてある種の「ときめき」が生まれ好奇心が旺盛になる。情報過剰だと仕事は作業に堕しかねないが、情報不足ゆえに創意工夫に出番がある。推理が働くのだ。別に推理小説を創作するわけではないが、「失われた環」を探そうとするプロセスに遭遇する。

失われた環はmissing linkミッシングリンクの訳である。進化論や人類学の概念で、ABがつながりにくいとか何かがスキップされていると感じる時に、両者の間に未発見または不明の中継的存在があるはずと考えるのだ(「A →(?)→ B」)。たとえば、「サル→人類」はジャンプし過ぎる……何かがその間をつないでいたはずだ……そう推理していたら、猿人アウストラロピテクスの骨という失われた環が見つかった……という具合。

いったい「一つの事実」がそれ自体、他の事実から切り離されて成り立つことはあるのだろうか。ある対象が「在れば」、それはすでに「そこ・・に在る」ことだから、場所と「在りよう」が付随する。リンゴという対象またはリンゴという事実は、認識された時点でもはや一つの対象、一つのリンゴではありえず、「赤い」「テーブルの上」「齧られた」などの他の事実との関係上で成り立つ。存在とは他の事実との関係性において「そこに在る」ことだ。

対象や事実を認識する能力や習慣は人によって異なる。関係性や他の事実に目を向ける経験的認識の差は、その後の思考力や想像力の差になってくる。ともあれ、かぎりなく数学的・物理的意味での「一つのリンゴ」などは現実の生活ではめったに存在せず、したがって認識する機会もない。あることが解せなくて首を傾げる時、人は失われた環を探して自分なりの辻褄を合わせようとするのである。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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