一行詩と一文詩

ネット検索で「一行詩いちぎょうし」は出てくると思っていたが、一文詩いちぶんし」もヒットしたのは想定外だった。こういう命名は誰もが思いつくものなのか。但し、いずれも詳しく書かれていない。つまり、詩の形式としてはまだまだ一般的ではなさそうである。ちなみに、「一句詩」と「一語詩」は出てこなかった。出てこなくても、そのように名付けて詩作するのは人の勝手だ。

文字数にとらわれて書くと難度が高まる。文字数の制限から解放されると、長短どっちに転んでも意のままなので書きやすくなる。書いた文がいくつかの行にわたり、ほどよく調子が整うとその体裁を一応「詩」と呼んでもいい。定型詩でなくても、五七五でも五七五七七でなくてもいい。一行でも一文でもかまわない。

一文すなわち一行とは限らない。長い一文は縦書きでも横書きでも、紙面サイズの制限を受けるから、必然強制改行して行は複数になる。一行に収めるならまずは文字数を減らさねばならない。さもなければ極端に小さな字にして無理やり一行にしてしまうかだ。

種田山頭火がこんなふうに考えたとは思えないが、定型にこだわらない自由な一行詩、一文詩には俳句のようで俳句でなさそうな、俳句でなさそうで俳句のような魅力がある。

窓あけて窓いつぱいの春

さすがだと思う。春が来ているし、ガラス越しでないことがわかる。


若い頃、俳句に川柳、短歌に詩と一応いろいろやってみたが、文字に制限があるので見たこと感じたことを削るか象徴することになる。それが楽しみの一つであり、それだからこそ言外の意味も生まれ余韻も残るのだが、文字数を合わせるのに意識過剰になるとストレスがたまる。気がついたら下手な自由詩ばかり作っていた。それも二十代半ばでばったりやめた。ちなみに、アルチュール・ランボーが二十歳で詩作をやめたのとは関係ない。

その後コピーライターの仕事のチャンスがあり、俳句や短歌ほどではないが、いくぶん字数を気にしたり調子を考えたりしながら作った。一行や一文のキャッチコピーを作った経験は、巧拙はさておき、書くことに生かせているような気がする。シンプルな広告のキャッチコピーは一行詩であり一文詩であり、鑑賞価値が高いものもある。

「なにも足さない、なにも引かない。」(サントリー)

「おーいお茶」(伊藤園)

「でっかいどお。北海道」(全日空)

「そうだ 京都、行こう。」(JR東海)

三つ目は眞木準の代表作。眞木準の作品集を座右の書にしていた時期がある。ところで、『新明解』では詩を「自然・人情の美しさ、人生の哀歌などを語りかけるように、また社会への憤りを訴えるべく、あるいはまた、幻想の世界を具現するかのように、選びぬかれた言葉を連ねて表現された作品」としているがちょっとハードルが高く、料簡が狭いのではないか。

今年に入ってから読んだ本に、見たことも聞いたこともない「筐底きょうていに深く秘する」というくだりが出てきた。語感から詩を感じた。「人目に触れないように箱の底深くにしまっておく」という意味らしい。以前、芥川龍之介の小説の中の一文、「その瞬間彼の眼には、この夕闇に咲いた枝垂桜が、それほど無気味に見えたのだった」にも詩情を覚えたことがある。なぜだかわからないが、波長が合ったと言うほかない。

最後に、拙作の「一{行 文 句 語}詩」をいくつか。

手に負えぬ書物を書棚に隔離する儀式を執りおこなう

大手門の巨石に花が影を落としている、肌寒い

裏窓から未来の時間を刻む音が時々聞こえてくる

朝にため息はつかない、夜のために取っておく

「落書」をエアゾールで消す、一件「落着」

「あ、こんな時間」 日時計の時刻を見て約束場所へ急ぐ

都会の隙間に目を凝らす、耳を傾ける、言葉を紡ぐ

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proconcept

岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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