メモと衣食住

大阪で3度目の緊急事態宣言が発出される前日の土曜日。もう少し先まで開催されるはずの小さなコレクション展は急遽その日が最終日になった。若い女性画家の展覧会である。入場料が無料の上に、小冊子と呼ぶには立派過ぎる、画家がセレクトした60ページの作品評集、それに画家自身のポートフォリオまでいただいた。

小冊子をめくる。図録から引用されたある画家の一文に目が止まる。

「美術がなくても、衣食住にはさほど影響はないと錯覚してしまったところに盲点があった」

世の中、アヴァンギャルドな青少年ばかりではない。普通の少年なら衣食住優先の生き方がたいせつだと知らず知らずのうちに刷り込まれる。「美術がなくても、衣食住にはさほど影響はないと錯覚……」という一文の「美術」の箇所には、衣食住に直接関わらないモノやコトなら何でも入る。思い当たることがいろいろある。

もう40年以上、何かにつけてメモを取ってきた。忘れないためだけでなく、メモにはペンを手にしてノートに向き合えば知恵を絞りだす効能があるからだ。長く習慣にしてきた者にとって、メモを取るのは苦痛でも何でもない。それは、ヘッドホンでいつも音楽を聴いている人と同じで、楽しい、なくては困る、生活の一部……と言うべき存在になっている。


このところよく言われる不要不急論と衣食住優先論はよく似ている。衣食住以外のたいていのことは、極論的に言えば不要不急なのかもしれない。いや、衣食住のうちにも不要不急扱いできるモノやコトが少なくない。しかし、生活は――つまるところ人生は――要か不要か、急ぎか不急かで線引きできるほど単純でないことは誰もが百も承知している。

ぼくが中高生の頃、「芸術なんぞでは食っていけない」という大人たちのことばをよく耳にした。衣食住では食が最優先されていた証だ。食っていくことを抜きにして、文化だの芸術だのとほざくわけにはいかんぞということだったのだろう。

文化芸術にしてそうなら、散歩も雑談も読書も当然衣食住に優先することはなく、ましてやメモを取るような行為がその上にあるはずがない。メモを熱心に取りながらも、まあ、なければないで困ることはないだろうと最初の頃は思っていた。ところが、そういう物分かりの良さ、大人の常識になびく事なかれ主義が、大変な錯誤だということにまもなく気づいたのである。

衣食住満たされてこそのメモと言えるなら、メモ取りができてこその衣食住とも言え、それで何の不思議もないではないか。「メモが取れなければ、生活も人生もなく、衣食住を考えるどころではない」という思いを、何を大げさななどと自ら言ってはいけないのである。

文化や芸術がなく、散歩も雑談もせず、その他諸々の不要不急を抜きにして、現代人はギリギリの必要条件を満たそうとするだけの衣食住生活を送ることができるのだろうか。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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