説教や訓示の中身

オフィスの近くのあの寺が、月替わりの標語を掲示。今月は「心配するな あわてるな」という微妙なメッセージ。はたして不特定多数の通行人にはどんなふうに響くのだろうか。

ぼくはと言えば、心配したりあわてたりする時もあるが、この前を通り掛かった時の精神状態はすこぶる健やかで落ち着いていたので、「はいはい、さようでございますか」と見流すだけだった。先のことを心配ばかりして拙速気味に動いている時だったなら重く受け止めたかもしれない。

いろいろと気遣いし、早めに行動する人たちは良識のある少数派だと思われる。「心配するな あわてるな」とお説教したところで、彼らには当てはまらない。心配を気遣いと言い換え、あわてるを早めの行動と言い換えれば、「気遣いするな 早めに動くな」と言っているわけだ。こんな戒めが書かれていたら少々違和感を覚えるだろう。


「きみ、少しは気を遣ったらどうなんだ、自分事のように心配してくれよ……よくもそんなにのんびり構えられるもんだな……やみくもに慌てろなどとは言わないが、のんびりしすぎじゃないか……」 ぼくの知るかぎり、こんなふうに言ってやりたい者のほうが多数だ。「心配しろ あわてろ」と強くは言わないが、「もうちょっと心配しよう ほんの少し急ごう」のほうが当てはまるケースが多いのだ。

いやいや、説教や訓示は必ずしもよくあることを取り上げたり多数派に向けられたりするとはかぎらない。痴漢をする者は少数派だが、大阪では「痴漢はアカン」という標語が掲示されている。「手を触れるべからず」や「撮影禁止」なども百や千に一つの不届き者に向けられた注意書きである。

当然ながら、自分には当てはまらない、自分には関係のない説教や訓示の中身がある。それが大書されて頻繁に貼り出されていると快く思わない。標語には、「ゴミを捨てるな」と「ゴミを拾おう」のような、禁止系と推奨系の二つがある。きれいな場所なのに「ゴミを捨てるな」とか「芝生に入るな」という禁止文句ばかり見せられるとがっかりする。「ゴミを拾おう」とか「街をきれいに」もわざわざ有言化してもらうには及ばない。

ふれあい広場やふれあいカフェは標語の形を取っていないが、「広場でふれあおう」「カフェでふれあおう」という説教・訓示の流れを汲んでいる。正直言って、ネーミングが安易で陳腐だし、余計なお世話だと思う。

投稿者:

アバター画像

proconcept

岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です