日常の魅力

『日常の魅力』と題した直後に、「日常」を含むタイトルのブログをこれまでに何度か書いたのを思い出した。調べてみた。

『日常、あらたなり』(201610月)、『芸術家の日常』(20171月)、『日常の周辺』(20173月)、『日常について』(20182月)

日常ということばも現実も気に入っていて、読み返してみると、いずれの文章も日常礼賛の趣が強い。数年経った今も、大げさに言えば、二度と同じ日常はないと覚悟して愛おしんでいる。もしどこかでプロフィールを書くことになって、そこに趣味の欄があれば、読書や音楽鑑賞や散歩ではなく、迷わず「日常」と記してみようと思う。

ところで、先日、日常の本質を「日常論」として書いた本があれば読んでみようと思い、書店で検索したり背表紙を眺めたりしてみた。見当たらない。少なくともぼくには見つけられなかった。と言うわけで、論としての日常を自前で少し考えてみる。


日常は「普通」と関わる。日常的なこと・・もの・・は、普通によくあること・・やよく手にしたり見たりするもの・・である。また、日常は「行為」ともかかわる。習慣的に毎日繰り返され、勝手をよく知っているおこないである。

「非日常」に比べると派手さを欠くので、日常を哲学の対象にするとねた切れを起こしそうだし、深掘りも広がりも望みづらい。では、哲学用語集に日常という術語は収録されているか。手元にある数冊の用語集にあたってみたが、日常が見出しとして立てられている本は一冊もなかった。

日常の本質を概念的に捉えるのは容易でない。日常について考察していくと、日常生活を解体して要素に分けることにならざるをえない。たとえば日常的で普通の一日を朝、昼、夜に分け、食べる、働く、遊ぶなどの行動に分類するのが精一杯だ。そして、日常的に感じることを私小説風にとことん描写するにしても、日常の本質――日常とは何か?――に迫れそうな確信は持てない。

日常が少しでもあぶり出されたり浮き彫りにされるのは、非日常と対比される時に限られる。日常という「ケ」には非日常という「ハレ」が必要なのだ。こんなことはすでにわかっている。いろいろと思い巡らしたものの、またいつもと同じところにやって来たようだ。そうか、この道はいつか来た道と思うこの感覚がまさに日常的なのではないか。

散歩に出掛ける。カフェに入る。いつものようにコーヒーを注文し、本を読んだりノートを書いたりする。毎週繰り返されるぼくの日常の典型である。しかし、これが旅先のホテルを出てからの一連の行動になるとワクワクして非日常になる。ワクワクとは心が浮くことで、「いつもの」という感じがしない状態だ。この対極にある安心感、それが日常の魅力のようである。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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