信用と不信は隣り合わせ

以前、欧州の国営鉄道の改札と切符のことを書いたことがある(思い出切符)。ぼくたちが慣れ親しんだ「改札」の概念がないという話だ。いつでも誰でも――列車に乗る人も乗らない人も――駅のホームまで入れる。切符がなくても入れるし、その気になれば乗車もできる。列車に乗る人はホームにあるタイムレコーダーのような装置に切符を入れる。何月何日何時何分と刻印されて出てくる。あとは行き先まで乗車し、その切符を持ったまま駅を後にする。到着駅に改札らしきものがあっても、駅員は切符を回収しない(と言うか、切符売場以外の場所で駅員を見かけることがない)。切符はごく稀に車内で抜き打ち検閲されるだけだ。列車に乗る人はみな切符を所持していると見なす。これを「信用改札方式」と呼ぶ。当然、信用を裏切る者には高額の罰金が科せられる。


病気になった知人の病名が初耳ということがよくある。最近の病名は驚くほど細かく分類されている。医学の進歩のせいか、かつてなかった病名が次から次へと「発明」されるのだ。患者の多くは病気に罹っていると自覚する前に、病名を告げられる。「あなたの病名は何々です」というかかりつけの医者を一応信用はするが、心のどこかで「本当にそうだろうか?」と納得がいかない。まあ、いくばくかの不信の念も抱く。


エアコンをつけるたびに異様な音が出る。突然止むこともあるが、しばらくするとまた音がする。修理に来てもらった。エアコンをつけると、その時にかぎって音が出ない。朝につけたら音がしていたのに。エアコンをつけるところから目撃してほしいので、直前に消しておいた。そして、修理の人の見守る中、再度オンにすると静かに運転するばかり。これでは異様な音がするという証拠が示せない。「もうちょっと様子を見ましょう」と言われた。気まぐれエアコンが信用され、ぼくの証言は信用されなかったのである。


「あの人に会ったことがある」と「あの人に会ったことがない」の差が大きいことをぼくたちは知っている。縁やコネはこの差を反映する。会って握手をして一言二言交わすだけで、会っていないよりも信が強くなるような気がする。確かにそうだが、会って握手をして話したために不信が募り、会わなければよかったと思うこともある。


自分のしていることが論理哲学論考的に無意味だと断定されても、人生哲学雑感的に意味があると思えば、ひとまず自分を信用しておきたいと思う。たとえ異論を唱える相手がウィトゲンシュタインだとしても。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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