「夏の終わりの……」

夏の終わりはこの時季ならではの旬のテーマ。夏の終わりについて――そして秋の兆しについて――何か書こうとするなら今しかない。「夏の終わりの」まで言いかけて一呼吸置いてから「ハーモニー」と続ければ、玉置浩二と井上陽水が響かせるあの歌だ。

あの歌、「夏の夜を飾るハーモニー」と「真夏の夢」の二カ所しか夏が出てこない。夏を春や秋に替えても違和感はなさそう。ただ、真夏はあっても(また、真冬もあるが)「真春」や「真秋」とは言わない。

一昨日の最高気温は22℃、昨日が30℃。ここ最近は夏の終わり感と秋の始まり感が往ったり来たりしている。夏のバトンの渡し方がまずいのか、秋のバトンの受け方がぎこちないのか。ところで、まもなく終わろうとしている今年の夏も平年並みの暑さだった。但し、ここ数年の平年並みは半世紀前とは比較にならないほどの激暑である。


今年も扇子に出番がなかった。暑かったのに使わなかったのはなぜか。焼け石に水、いや灼熱に弱風だからである。暑さをやわらげるには扇風機クラスのあおぎ方が必要。そんなに煽げば余計暑くなる。涼をとるには手っ取り早くクーラーかよく冷えた飲み物ということになる。しかし、よく冷房の効いた甘味処のかき氷の後、灼熱の外気の中に出て行かねばならない。極楽から地獄へ。

昭和の、たとえば30年代には、まだまだ涼にまつわる風物詩が生きていた。打ち水、団扇うちわ、風鈴、金魚すくい、蚊取り線香、浴衣などはそれなりに功を奏していたような気がする。今となっては、騒音に紛れる風鈴の音色もアスファルトの上の打ち水も情趣不足である。

「夏の終わり」と「秋の始まり」はついになる。『上田敏訳詩集』をめくっていたら、オイゲン・クロアサンの「秋」という作品を見つけた。

     秋

けふつくづくと眺むれば、
かなしみいろ口にあり
たれもつらくはあたらぬを、
なぜに心の悲しめる。

秋風わたる青木立あおこだち
葉なみふるひて地にしきぬ。
きみが心のわかき夢
秋の葉となり落ちにけむ。

ヴェルレーヌの「落葉」の訳詩もうら悲しいが、こちらの詩もかなり暗い。秋を紡ぐ詩は、どれもみな生きるのがつらそうで、ただただ哀愁を漂わせる。心身ともに元気にしてくれる秋の詩に出合った記憶がない。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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