時計的な暮らし

紛失したり壊れたり、欲しいと言った人にあげたりしてだいぶ減ったが、机の引き出しにはまだ腕時計が10個くらいある。常時使うのは2本のみ。着けもしないし動くかどうかもわからないのに捨てずに置いてある。時計の数が増えても計測精度が上がるわけでもないのに。正確な時刻を云々するなら、スマートフォン一台あれば事足りる。

20211111日の今日、いま書いている時点で時刻は午後315分。途中何回か中断するはずなので、書き終わりは午後4時を回るだろう。午後1時頃からずっと雨が降っていた。窓には大きな雨粒が当たり続け、おびただしい水滴がガラス面を這った。午後3時前にやっと止んだ。

2時間の経過は壁掛け時計で確認している。数字で知らせてくれる利器がなければ時の経過を正確に感知することはできない。なぜなら、さっき「そろそろ3時かな」と思って時計を見たら、まだ1時半だったからだ。ぼくたちの生物時計はその程度のものである。


16世紀、ガリレオ・ガリレイはピサの斜塔で物体の落下実験をおこなった。二つの質量の異なる物体を落として地面に同着するかどうかを確認したのだ。あの時、もちろんストップウォッチはなかった。時間はどのように測られたのか。手首に指をあてがって脈拍で計測していたのである。一脈拍の10分の1の精度で時間を計測したというから驚くしかない。

「あ、いま3時か……」などとつぶやいて日々を過ごしているが、あのつぶやきは何を意味しているのだろうか。いったい3時とは何なのか。1日が24時間で刻まれているという観念はもはや拭いきれないし、暮らしはこの時間軸を一番の頼りにして成り立っている。時計もなく、分も秒も測れなかった時代に目に見えない節目が確かに感じ取られていた。今は、適当に「時の流れ」などと言いながら、時にはそんな歌もうたいながら、目盛りだらけの毎日を送っている。

この時点で予想よりも早く草稿が書けた。今から読み直して推敲して午後4時頃までには公開できそうだ。と、こんなふうに時計ばかり見て、時間の推移とシンクロさせながら本稿を書いたが、普段書くのと何がどう違うのかはよくわからない。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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