充ち満ちている秋

仕事の合間に、仕事とは無関係に辞書・辞典・事典を時々引っ張り出す。書架一本に百冊ほど収めてある。その書棚には歳時記の類も置いてあって、季節や月の変わり目に金田一春彦の『ことばの歳時記』も拾い読む。愛読し始めてから30年以上経つ。この本には今時の風物の話は出てこない。

1118日の今日のことばは「落花生らっかせい」。南京豆やピーナッツとも呼ばれるが、落花生と言えば殻付きのものを指す。今年は10月中旬から今月上旬までなま落花生をよく見かけたので、そのつど買い求め茹でて食べた。落花生だけではない。豊穣の季節だけに八百屋や果物店には多彩な食材が並ぶ。つい買い過ぎる。

ところで、秋にもの悲しくうら寂しいという印象を抱くのはなぜだろう。冬を控えた晩秋にペーソスを覚えた遠い昔の詩人歌人らがそんなふうに秋を脚色したからだと睨んでいる。もの悲しくてうら寂しい詩や歌が有名になったために、ぼくたちは実際の季節感とは異なるイメージを刷り込まれてしまったのではないか。


年号「令和」の考案者と言われ、万葉集研究で著名な中西進に『美しい日本語の風景』という歳時記的な本がある。その「あき」の章は次の文章で始まる。

「あき」とは、十分満足する意味の「飽き」と同語だと思われる。(……)この季節が収穫の豊かさと直結していることは、いうまでもない。(……)稔りの秋には野山にさまざまな色どりがあふれる。

「飽き」という表現はネガティブに響くが、飽きに至るのは「もう十分に満たされている」からである。豊かさにもほどがあると言いたくなるほど、秋は充ち満ちていて、一年で一番恵まれた季節なのだ。にもかかわらず、「夜寒よさむ」や「夜長よなが」のようなことばが気分を内向きにさせる。空は天高く晴れわたっているというのに。

降りしきる落葉がもの悲しいのではない。枯葉の絨毯がうら寂しいのではない。あくまでも見方、感じ方次第だ。落葉でさえ豊穣である。大量に積もった落葉を踏みしめて散策するたびに、実にいい季節だと思う。いにしえびとは、たき火にしたり発酵させて腐葉土にしたりした。秋の恵みの枯葉にエネルギーを感じ取った。

生落花生を茹でたいた大量の殻は、何の配慮もせずに捨てたが、あれも堆肥や動物の餌としてリサイクルできるらしい。秋が残すもので冬を過ごす。はやりのことばを使えば「SDGs (エスディージーズ)の秋」である。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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