抜き書き録〈2022/05号〉

つい半月ほど前に春を実感したばかりである。これから存分に春を楽しめるというのに、心配性は春が瞬く間に過ぎるのではないかと冷や冷やしている。

春を惜しむといえば、去りゆく春に手を挙げて別れを惜しむ趣だが、なにも晩春に限った感情というわけではあるまい。終わりよりも酣(たけなわ)においてこそ愛惜の思いの強いのが、春という季節のありようではないか。
(高橋睦郎『歳時記百話 季を生きる』)

惜春ということばがあるように、惜しむのはゆく春。人はあまり夏や秋や冬が去るのを惜しまないのだ。

わたしはあるときフト気がついた。
この世の仕組みはすべてズルでできあがっていると。
大悟というのだろうか。
(東海林さだお『人間は哀れである』)

この世の仕組みがすべて善行や善意で出来上がっていると言われるよりは、「この世はすべてズル」という主張のほうがよほど説得力がある。善はなかなか主役に躍り出ないが、ズルは堂々と、抜け抜けと、この世をわがものとして生きている。ほぼ一日に一度は何がしかのズルを目撃する。

文章を書くということは、一人の人間の能力全部を出し尽くすということである。テーマが与えられると、どこから光を当てるか、どういう立場に立って書くかを、まず決めなければならない。ばらばらの部分があるだけでは、全体につながらない。全体を貫く軸をみつけ出さないかぎり、部分は部分にとどまる。
(尾川正二『文章のかたちとこころ』)

文章を書くことの特徴が網羅され見事にまとめられている。但し、実社会では、テーマは与えられるばかりでなく、自ら見つけなければならない。職業的にものを書く人のみならず、仕事人は誰もがテーマを持っているし、テーマを主観的かつ客観的に理解するために筆記具を手にすることが多くなるはず。

みなさんも小さな子供が「なぜ」「なぜ」と繰り返し質問し、聞かれた大人が最後には「だからそういうものなの!」と会話を打ち切る場面を見たことがあるだろう。子供は物事が複雑であること、何かを説明しようとすると次々と新たな疑問が湧いてくることを、なんとなくわかっている。「説明深度の錯覚」は、大人が物事は複雑であることを忘れ、質問するのをやめてしまったことに起因するのかもしれない。探求をやめる決断をしたことに無自覚であるために、物事の仕組みを実際より深く理解していると錯覚するのだ。
(スティーブン・スローマン/フィリップ・ファーンバック『知ってるつもり 無知の科学』)

“0”から“10”まで刻んだ理解の目盛りを仮定する。「知らない」は目盛りの“0”だが、「知っている」が“1”から“10”の目盛りのどこになるかは特定しづらい。「知っている」は人によって意味が変わる多義語なのである。「きみ、知っている?」「はい、そのつもりです」というやりとりで意思疎通できることは稀なのだ。自分の「知っている」のほとんどが「知っているつもり」である。無知を暴かれたくないのなら、あらかじめ「よく知らない」と言っておくのが無難である。しかし、「よく知らない」と控えめな人ほどものをよく知っていたりするから、話はややこしい。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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