刺激を与え刺激を受ける

先週末の私塾で「閾値」の話をしたら、塾生の一人が早速自身のブログで取り上げていた。閾値を知らない塾生が大半なので話をしたのだが、彼にとってはこのことばは初耳ではない。これまでも何度か考察をしてきたはずである。

 初めて聞くとわかりにくい概念だが、何度か自力で考え経験に照らしてみると理解できるようになる。彼は自身の経験をいくつか振り返り、閾値突破の過程を描いている。「テーマ選び、深い悩み、継続」が重要な条件だとしたうえで、次のように続けている(以下引用)。

「閾値を超え、当該分野におけるプロフェッショナルと言われる職業人になるためには、これらの条件を満たさなければならない。(中略)閾値とは、一種のコツを習得する瞬間であり、プロフェッショナルの条件でもある『再現性』を保証する瞬間である。」

どうやら閾値に関する理解の閾値を超えたようである。「プロフェッショナルの条件でもある『再現性』」とは、身体で覚えたスキルが黙っていても何事かを正確に何度も何度もやり遂げてくれることだ。これは「暗黙知」に似通っている。「ことばではうまく理屈を言えないが、勘や身体や指先の技能などが創造的に働いてくれるような知」を暗黙知という(たとえば、折り紙の折り方をことばで説明することはできないが、勝手知った指先がものの見事に形を仕上げていくような技能的知識)。


ちなみに、閾値という漢字は「いきち」または「しきいち」と読む。「閾」単独でも「いき」や「しきい」だが、敷居にも通じる意味をもつ。敷居のこちら側と向こう側を隔てるのはわずか数センチだが、この差がきわめて大きい。

さて、15年前に拙著『英語は独習――自己実現に迫る英語カウンセリング塾』の中で、閾についてぼくは次のように書いた。

いき」という言葉があります。「刺激がだんだんと増えて、ある点に達すると、そこを境にして感じたり感じなくなったりすること」です。

これを英語学習に当てはめるとどうなるか。

まず、初心者の場合。苦労に苦労を重ねて勉強する。いくらやっても、なかなか上達感がわいてこないが、ある日突然、手応えを感じる。いったんこの手応えをつかむと、あとはトントン拍子で伸びていく。努力が達成の喜びとして「感じられるようになる」のです。

次に、少し力がついてきた人の場合。単語や構文を意識して覚えていく。しゃべるときにも、頭のなかであれこれと単語を組み合わせる。しかし、あるところから無意識に使えるようになってくる。基本的な事柄はある程度機械的に口をついて出てくる。こうなると、もはや英語を「感じなくなる」のです。(中略)

グラスに水を注ぐ。当然のことですが、なみなみと注がないと水はあふれません。ギリギリまで注いでも、表面張力の仕業でなかなかこぼれない。そろりと一滴を加える。それでも水は踏んばる。もう一滴。まだこぼれない。しかし、こうしているうちに、何滴目かの一しずくが一気に水をあふれ出させます。

ほとんどの英語ダメ人間は、あふれるほど水を注ぐ前にあきらめたり頓挫してしまっているのです。少し注ぐだけでは、次に注ぐまでに前の分が蒸発してしまう。グラスが一杯に満たされるまで、集中して、真剣に、しかもある程度一気に注がないとダメなのです。


長い引用になってしまった。まずまず説明できていると思う。英語学習を他のテーマに置き換えても通用する。一点補足すると、閾値とは「最低限(最小限)これだけのことをしないと一皮むけない」という変化反応点である。昨日までにっちもさっちもいかなかったことが、ある境界線を越した瞬間、みちがえるほどうまくいくようになる。数年間まったく変化がなかったのに、ある日の一時間で何段階も一気に昇り詰める。「読書百遍意自ずから通ず」や「只管朗読」にも通じる現象だ。

適性やセンスやそれまでの経験というものもあるから、最小限どれだけのエネルギーを注がねばならないかは人によって違う。時間量が重要なのではない。だらだら時間を費やしても閾値には達しない。時間とエネルギーの集中度こそが鍵をにぎる。

ぼくが与えた刺激をしっかりと増殖・増幅してくれた塾生。それがターンする波動のごとく新たな刺激となってぼくのところにやって来る。このような知的切磋琢磨が、閾値突破の一助となること、間違いない。 

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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