バイアスから呪縛へ

火災と報知器

真夜中に火災警報が町内に鳴り響き、はっきりと内容が聞き取れるほど大音量でアナウンスが何度も流れた。「火事です! 火事です! 12階で火災が発生しました。安全に注意して避難してください」。

ウワァ~、ウワァ~、ウワァ~、ウワァ~と、ちょっと耳慣れない警報音の後にアナウンスが続く。アナウンスの後は再びウワァ~である。これが10分以上続いただろうか。

昨日の午前245分、ほとんどの人が眠りについている時刻。ぼくの居住するマンションの裏、一本路地をはさんだ新築マンションでの出来事だ。鳴り響き始めた直後に北側のベランダに出て様子をうかがった。非常階段に人気はなく、12階を見上げても何事かが起こっている気配はない。

およそ5分後にようやく下層階の住人が何人か廊下に出てくるのが見えた。そのうちの一人が12階の方へと階段を上がって行くのも見えた。マンションとマンションの隙間に、おそらく消火機能のない、小型の消防車らしきものが到着する。最初の警報が鳴り始めてからすでに15分経過していた。しばらく見守っていたが、どうやら火災報知器の誤作動だったようである。


災害発生直後、人は取らなくてもいいのに不可解な行動を取ることがある。他方、取ってしかるべき自然な行動を取らないことがある。たとえば、マンションで警報ベルが鳴っても、ほとんどの居住者は「何かの間違いだろう」と考え、誤作動だと決めつけて動こうとしない。これを〈正常性バイアス〉と専門家は呼ぶ。バイアスとは「誤謬を招く偏見や先入観」のことだ。無意識のうちに「これは異常ではないんだ。何かの間違いなのだ」と、正常の顔を立ててしまうのである。仮に何かが起こっていたとしても、管理人か別の誰かが処置するか消防署に通報するだろうと期待する。

突発的な災害時には、もう一つ、〈多数派同調バイアス〉という状況が生まれやすい。マンションの他の多数の住民が何もしていないことにならって、自分もじっとするのが安全だと都合よく判断してしまう。このバイアスに「誰かが何とかするだろう」という期待が重なる。もし、誰かが階下や階上で動き始めた気配を感じれば、今度はそれに同調して自分も動く。

もっと恐ろしい心理状態がこの後にやってくる。これは間違いなんだと自らに言い聞かせ、みんなに合わせようとした結果、無思考状態に陥り凍りついたように身動きできなくなるのだ。マンションの住民はそれぞれ独立した居住空間に住んでいる。にもかかわらず、マンションというくくりの集団に属している。ふだんは都合よく自分だけで生きているくせに、非常事態が発生すると個別心理を集団心理にシフトする。

以上のような心理状態は非常事態に固有のものではない。よく考えてみれば、平時でもよく似た気質や行動が見られるではないか。「みんなと同じであろうとすること」や「誰かに期待をかけること」は日常茶飯事的な性向なのである。標準意識、安全神話、甘えの構造が根を張っている。しかも、一難去って教訓残らずの憂いありだ。裏のマンションの連中、もう忘れているだろう。結果オーライで済ませてはいけないのである。

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proconcept

岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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