万歳! vs 頑張ろう!

オバマ大統領の就任演説を耳から聞いたのはニュース番組。もちろん、全文ではない。出張先のホテルでもらった夕刊に載っていた演説は25%くらいに凝縮した要約であった。あくる日、朝刊には全文が掲載されていた。翻訳のこなれ具合が気になった。その日、他の二紙も読んだ。微妙に翻訳文が違う。その二紙はいずれも英文も載せてくれていたので、英文も読んでみた。

ある大学教授が「具体策に乏しい」と批判していた。少し酷だ。所信演説なら方策が語られるべきだろうが、就任演説だからやむをえまい。むしろ、就任演説特有のステレオタイプな鼓舞がなく、真摯でさらりとした論理性を垣間見た。日本人にはなかなか共有しづらい多民族性、異質文化性を踏まえねばならないくだりにはやや高揚感を伴うことば遣いもある。だが、総じて冷静でありメッセージの論理は明快である。


ぼくが指摘するほど、オバマ大統領が冷静で論理明快だと思わない人もいるだろう。ぼくの受けた「静かな理性」という印象がずれているのなら、それには思い当たる原因がある。就任演説の前週の金曜日に開催されたわが国の二つの政党の党大会を見たからである。その日、自民党と民主党は同日に党大会を開催した。時代が変わっても、攻守それぞれ相変わらず紋切り型のシュプレヒコールで閉会していた。一方が「万歳」、他方が「頑張ろう」。どちらの党にも「政治時代劇」に嫌悪する若手代議士も大勢いるはずだが、仲間内でそんなに鼓舞し合って何を考えている? と首を傾げた。

万歳。それは大勢で両手を勢いよく上げる動作を伴う。そして大勢で唱えることばである。ぼくの言語的知識からすれば、祝福の表れ、または勝負に勝利したときの雄叫びである。いったい自民党は何を祝福したのか、あるいはどんな勝負事に勝利して「万歳! 万歳! 万歳!」と三唱したのか?

頑張ろう。余力を残さずに持てる力を十分に出して努力するときの決意である。前途に困難があるかもしれない、しかし、それにめげずに最後までやり通すという意志の表明だろう。チャレンジャーとしてはいいし、「万歳」よりはましかもしれない。でも、「頑張ろう! 頑張ろう! 頑張ろう!」などという三唱はスマートではないのだ。発想も体質も古いのである。


オバマ大統領の演説の締めくくりは、よく耳にする「神の祝福あれ」だった。だが、それに先行する最後のメッセージは感嘆符がつくような「空っぽのテンション」とは無縁だった。次のように自分流で訳してみた。

「子どもたちのそのまた子どもたちへも語り継ごうではありませんか――試練に直面しても、わたしたちは(建国以来の長い)旅路を終わらせなかったと。わたしたちは後戻りもせず、挫折もしなかったと。地平線と神の慈悲に目を据えて、自由という偉大なる贈り物を引き継いで、続く世代にしっかりと届けたと。」

どう解釈しても、そこに居合わせた200万人の人々に対する空元気なシュプレヒコールではない。「万歳! 頑張ろう!」なんて泥酔状態でも叫べるではないか。ぼくはアメリカのジレンマについてどちらかと言えば批判的だし、そのテーマについてブログで書こうと思っていた矢先だった。しかし、「万歳と頑張ろう」の国にとっては、お手本にせねばならないことがまだまだ多いと言わざるをえない。  

投稿者:

アバター画像

proconcept

岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

「万歳! vs 頑張ろう!」への2件のフィードバック

  1. (極端なまでに同調されるくらいなら辛辣に批判されるほうがましだと思うことがある}と言っていらっしゃるのに、まことに失礼とは存じますが、思っていても表現できないことが、こうして理路整然と自分の気持ちまでを整理してくれるように書かれていると、感動します。おばちゃんは毎日を幸せに生きていく術を身につけて、少々の事には傷つかない人種ですが、若い人にキチンとした考え方で物を言いたい。身の回りで起こっている色々な事を、メディアの意見に流されず、先入観や独断に囚われることなく正しく判断したい、とカタツムリのように少しずつですが勉強しています。言われたくないでしょうが、毎回{そうだよな~」と思う事ばかりです。時々解らない言葉が出てきても、その内どこかで解るだろうと自分で勝手に思っています。Okano Noteのファンにはそんな人もいます。よろしく。

  2. 女子57歳さん、いつもコメントありがとうございます。ぼくの伝えたい意味は、ほんとうはイエスではないくせに、ぼくとの関係上から取り繕って諸手を挙げて賛成するくらいなら、ここはイエス、ここはノーと言ってもらうほうがぼくにとってはありがたいということです。年上だからといって、無理しなくていいのです、ふつうに付き合ってくれれば。ぼくも若い頃はそうして生きてきました。賛成なら賛成、反対なら反対と表明したからといって、どんな一大事が起こるでしょうか。これからも自力で考えて自論を唱えていきますので、時折り偏屈な意見を開示しますが、よろしくお付き合いのほどお願いします。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です