読書の「非天使的な」定義

実際に読んだ人もいるはず。ピアスが著した元祖『悪魔の辞典』(The Devil’s Dictionary)はおよそ百年前にアメリカで出版された。一般の辞書同様アルファベット順に編纂されているが、すべての用語が再定義されている。再定義と言うものの、通常の発想ではない。すべて逆説的で諧謔的、人間の凡庸な発想をことごとく皮肉っている。ふだん使っている『広辞苑』や『新明解』やその他の国語辞典が「天使の辞典」と思えばよい。

時代的差異もさることながら、日米の文化的差異があるので、まったくおもしろくない定義もある。その時々の世相のフィルターに通さないと新鮮な風刺的定義になってくれない。しかし、心配無用、ピアスの思いを汲んでオリジナルの悪魔の辞典を編んでくれる人たちがいる。告白すると、ぼくの本棚には天使の辞典よりも悪魔の辞典のほうが多い。秀逸な悪魔の辞典から二冊紹介しておこう。


『ビジネス版悪魔の辞典』(山田英夫著)。本も読書も再定義してくれていないのがちょっと残念。さて、書評会のメンバーが報告・連絡・相談、いわゆる「ほう・れん・そう」をバッサリ切る仕事術を紹介した。この悪魔の辞典の定義はこうだ。

自分で主体的に意思決定できない社員を育成する日本的システム。

なるほど。真実は天使側の定義だけにあらず、悪魔側も真理の光を当てているではないか。

にんまりと笑ってから少ししんみりした定義が「中小企業」だ。

(1) 小さい企業のうち、大きくならないほうの企業群。
(2) 倒産したら、自腹で補てんしなくてはならないほうの企業群」。

さらに、ウソのようなホントが「プロジェクター」である。

研修中にパソコンとうまくつながらないことにより、誰がパソコン・スキルが高いかを教えてくれる機器。

ぼく自身、実際に何度か体験した。うまくつなげた受講生に送られる拍手は、講師への感謝の意を込めて送る拍手よりも、もちろん大きい。

別役実の『当世悪魔の辞典』は魅せてくれる。読書について「はじめに」でいきなりこう説明する。

読書というものがおおむね気詰りなのは、あらかじめ入口と出口が示されている点であり、自由に「出たり入ったり」出来ない点にある。

続いて、本編では「読書」を次のように定義する。

食事中の、排便中の、通勤電車の中での、やることがなくて退屈している目に与えられた、片手間仕事。従ってそのための本は、小さなものに限られる。最近「読書」が「文庫本を読むこと」と同義になりつつあるのは、そのためである。

「本」はどう定義されているか。

既に我々は、生涯をかけても読み切れないほどの量の本を抱えこんでおり、これは更に増加し続けつつある。「人類は滅びて、膨大な本だけが残った」という予感を、我々は感じとりつつある。


ふつうの天使の辞典が、読書を「本を読むこと」と定義し、本を「書物、書籍」と定義する想像力の乏しさにあらためて呆れ果てる。書かれた通りに文字を理解し、著者が意図した通りに 本を読むほどつまらぬことはない。ひとまず「悪魔の辞典的な読書」が批評眼を培ってくれることを指摘しておく。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

「読書の「非天使的な」定義」への2件のフィードバック

  1. 筒井康隆の『みだれ撃ち轢・巣mート』以来,読書は轢・曹ネりとおぼえています。
    『株売りどき・買いどきがピタリ』宮耕日本実業出版社1989.4なる書籍などまさに「轢・早vせねば。
    しかしながら,「読めないくらい本はある」という事実は,旭屋へ行っても実感しますし,何のためにこんな本,と思っても,それこそ天に唾するわけで。「ジレンマ」とは思わないのですが,それくらい鈍感に書と向き合っているのか,とブログを読んだ次第です。

  2. いやはやいろんな見方があって読書観はおもしろいです。読書にはリスクが伴いますね。最近は文庫本や新書でも1000円近くします。タイトルが気に入って読み始めたものの、数ページでさよなら。そんな本が書棚に数百冊はあります。さよならしたくせに、残しているのは未練か? もう一度挑戦する気か? その中の一冊をポケットに忍ばせてカフェへ出掛け、ページを繰らずに帰ってくる。そんな土曜日の光景が多いのですが、それもまたよし!?

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