さわらぬ神に祟りなし

一昨日のイタリア語の諺に犬は登場しなかったが、意味は「犬も歩けば棒にあたる」であった。今日の諺には犬が登場する。その犬が、わが国の諺では神に変身する。

ところで、ぼくは忌憚なく意見を述べる性格であり、毒舌もよく吐くし、自分の論拠に自信があれば反論や批判も辞さない。とは言え、講師業もなりわいとしているので、綱渡りしながらも落っこちないようにことば遣いには細心の注意を払うようにしている。万が一にも舌禍事件を引き起こしてしまうと後々が大変なのである。

愛犬家の前で迂闊に「犬」などと不用意に言えないご時世である。「ワンちゃん」とぼくは言わないし、言ったほうがよくても言いたくない。代案として「ペット」と言うと、「ペットではなくパートナーなのだ」と飼主に噛みつかれ、言い直しを迫られる。一般的な犬のことを無難に「ドッグ」と呼び、個々の犬については愛称で呼んでおくのがよさそうだ。一番いいのはそういう偏愛グループの輪に入らないことである。

さわらぬ神にたたりなし

Non stuzzicare il cane che dorme. (眠っている犬をつついてはいけない。)

犬によりけりだが、眠っている犬をつつくと犬は驚いて逆上するかもしれない。神が犬と同じであるはずもない。だが、神だってふいにつつかれたら気分がよくないだろう。虫の居所が悪いとたたりがくだる。というわけで、「さわらぬ神に祟りなし」なのである。

こういう考え方をリスク管理であると勘違いしてはいけない。その逆で、無難主義をはびこらせることになりかねない。それどころか、一部の人間は禁止されると挑発された気分になり、逆らうことさえある。あるB級本に書いてあったが、「触るな! 触るとヤバいです」などという注意書きを見ると、触りたくなる心理が働くらしい。まんざら極論でもないだろう。禁酒や禁煙や立ち小便が守られないのもこれに近い。

ここぞと言う時――何が「ここぞ」かは人それぞれだが――ぼくたちは犬にちょっかいを出したり神の逆鱗に触れねばならないこともある。犬と神が、たとえば理不尽なクレイマーだとしても、うるさい奴だから、厄介な連中だからと言って放任するわけにもいかない。必要があれば、あるいは意地がおさまらないならば、反動を覚悟してつついたり触ったりすることを決断しなければならないのである。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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