白紙の状態

tabula rasa

ジョン・ロックの哲学をはじめとする諸々の事柄を書きだすとキリがないので、〈タブラ・ラサ〉というラテン語を出発点とし、そこから思いつくことを少し広げてみたい。

タブラ・ラサ(tabula rasa)。それは「文字が消された書板しょばん」のことである。何も書かれていない板、つまり、白紙と考えればよい。したがって、「これは白紙です」と言うつもりで、白紙にタブラ・ラサと書いてしまうと、この紙はもはやタブラ・ラサではなくなる。

白紙などどこにでもある。はじめから何も書いていない紙もそうだし、鉛筆で何やら書かれていた紙だが、ついさっき消しゴムで消したのなら、それも白紙である。「答案用紙を白紙で出す」などと言うが、答案用紙にはあらかじめ設問が書かれているからすでに白紙ではない。ぼくがここで言う白紙の状態とは認識論的な意味合いである。つまり、外界の印象を何も受けていない心の状態のことを表わす。


このことばを知ったのはディベート選手を卒業して、審査員に転じてからである。肯定側と否定側に分かれて議論する両者のいずれにも、議論が始まる前にくみしてはいけないのは当然の姿勢だ。偏見なき視点と言ってもいい。己の思惑や知識や価値観をすべてゼロにしてこそ、フェアな審査倫理がスタンバイする。白紙状態というのはこういうことである。

与えられた情報だけで判断する。情報が入ってくる前まで、対象となるものについての一切の知識を考慮の外に追い出す。知っていても知らないことにする。しかし、である。白紙はどこにでもあるが、脳内は真っ白ではなく書き込みだらけだから、すべてを消し去るのは並大抵ではない。いや、そもそもそんなことが可能なのだろうか。

当事者としてではなく、客観的に・・・・判断を下す者も人の子である。判断する立場にあるということは、判断される者よりも知識も経験も豊富であるに違いない。それらをゼロにして判断することが、それらを活用して判断するよりも公平であるという保証はない。少なくともぼくにとって白紙化はありえない。だが、白紙の状態に近づこうと努めることはできる。そして、それでよいのだと思う。タブラ・ラサとは公平精神を発揮するとの誓いにほかならない。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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