「意志あれば道開く」とか「願望は実現する」などとよく言われる。イタリア語にも次のような格言がある。
Volere è potere. (意志は能力である)
能力を「あることを実現する力」と見なしてもいい。さて、理屈っぽく考えると、意志という「一因」によって道が開けそうもないし、ただ願い望むだけで事がうまく実現するはずもない。では、意志・願望を持つことと何事かが可能になることの間にはまったく因果関係などないのか。それは、よくわからない。
意志があって強く願えば何でも可能になる、とは思えない。「精神一到何事か成らざらん」と言うけれど、二者対抗型の競技などにあっては双方が強くそう考えている。それでもどちらかが勝ち他方が負ける。サッカー国際親善試合の冒頭でキャスターが「絶対に負けられない試合がある!」と叫んでも、負ける時は負ける。相手にとってもその試合は絶対に負けられない試合なのである。絶対と強がっても、絶対はない。
おおよそダメなものはダメなのである。しかし、「ダメ」と信じ込んでいることに常識の穴や見落としがあるかもしれない。ダメと思っていること自体が錯覚である場合、別の機会にさらりとうまくいく僥倖に巡り合う可能性を否定できない。
意志があっても、ふつうは石に矢は立たない。ところが、石に割れ目があった、あるいは想像以上にもろい石であったというのであれば、矢が立つかもしれないのである。石は硬いから、それよりもやわらかいものを通さないという固定観念。石と矢の関係にはその固定観念が当てはまらないことがありうる。
では、チョキはグーに勝てるだろうか。意志強くして、かつ勝ちたいという願望を極限に高めても、チョキではグーに勝てない。大人のチョキで威嚇しても幼児のグーに勝てないのである。意志や願望にかかわらず、ルールによって制限されているかぎり実現の可能性はゼロである。石に矢の立つためしがあるのは石に矢を立ててはいけないというルールがないからである。チョキはグーに負けるというルールのもとでは、チョキでグーに勝とうとする意志も願望も無力である。