ユーモアの匙加減

ユーモア、ジョーク、エスプリ、ウイット、パロディ、ギャグ……「愉快学」の専門家はニュアンスを峻別して見事に使い分ける。この関係の本は若い頃から百冊くらい読んできたので、ぼくもある程度はわかっているが、今日のところは「ユーモア」ということばにタイトルの主役を務めてもらった。

「ひきこもごも」という熟語がある。断るまでもなく、「ものすごく引きこもる」ことではない。このことば、「悲喜交交」と書く。人生には悲しいことも喜ばしいこともある、社会には悲しむ人がいる一方で喜びに満ちた人もいる、悲しみと喜びは入り混じって人間模様や人生絵図を描く……まあ、こんな意味である。悲悲交交ではたまらない。できれば、毎日一生、喜喜交交がありがたい。

世の中、おもしろい人間とそうでない人間がいる。ぼくの周辺にもバランスよく半々で棲息している。どちらかと言うと、ぼくは悲劇よりも喜劇をひいきし、泣きネタよりは笑いネタのほうを好む。もちろん、このことは単純な楽観主義者・楽天家を意味しない。もらい泣きはしないが、もらい笑いはする。儀式としての作られた泣きは許せるが、本気モードでない作り笑いは許せない。

涙は国境を越える共通価値をもつ。だから、ぼくには悲劇はことごとくステレオタイプに映る。スピーチでは身の上の不幸や苦労話を語っておけば大失敗はない。講演会場に悲しみの空気を充満させるのはさほど難しくないのだ。他方、普遍性がないわけではないが、喜劇はおおむね個々の土着文化に根ざす。この場所・この街でおもしろいことが、少し離れたあの場所・あの街で笑いを誘わない。笑いは成功するか失敗するかのどちらかで、成否明白ゆえに挑戦的である。したがって、おもしろさの査定には「満点大笑」と「零点不笑」さえあれば十分、わざわざ「大笑」「中笑」「小笑」を加えて5段階評価にする必要はない。


雨降りの日に百円引きしている蕎麦屋がある。空を見上げれば雨模様だ。店に入る直前ポツポツと降り始めた。傘はない。こんな時、百円引きに目がくらまず、さっさと入店するのは粋かもしれないが、そこに愉快精神はない。やっぱり、蕎麦屋の隣のビルに潜んで土砂降りになるのを待つ姿のほうがユーモラスである。

明けても暮れても冗談ばかりでは周囲が疲れる。生真面目とユーモアのバランスを取るのは容易ではない。こういう文章にしても、真摯に綴っていけば生真面目な空気が充満して息詰まってくる。それに耐えられなくなると照れてしまう。そこで自ら茶化す。ユーモアで生真面目ガスを抜きたくなる。もちろん、こうなるのはぼくの特性であって、世の中には何時間も生真面目を語り書き続けられる人もいる。一度たりとも他人をクスッと笑わせもせず、読ませ聞かせ続ける力量には驚嘆する。

ここで昨日の年賀状の話を続ける。ぼくが年賀状にしたためる文章は、自分なりには本質論であり真摯な意見であると思っている。しかし、シャイな性分ゆえ、どこかでユーモアを小匙一杯加えたりシニカル系愉快を仕掛けたりしないと気がすまなくなるのである。ただ問題は、年賀状を手にする人たちすべてが、ぼくの匙加減の味になじんでいるとはかぎらないこと。したがって、人を小馬鹿にしてけしからんとか正月早々冗談はやめろとかの怒りを感じる方には申し訳ないと言うしかない。

しかし、もっと気の毒なのは、ユーモア味にまったく気づいてくれず、メッセージの全文を生真面目に受け止める人たちである。彼らは「おもしろい年賀状があるよ」とは言わず、「ためになるよ」と言って社内回覧したり清く正しく朝礼のネタにする。ある意味で、悲劇である。

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proconcept

岡野勝志(おかのかつし) 1951年大阪生まれ 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター 岡野塾主宰 ヒューマンスキルをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。 マーケティング、コミュニケーションにまつわる企業や人

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