土曜午後の書店、アマノジャク

今日は土曜日。ゆっくり本を読もうと思っていた。買いだめしている本から読めばいいのに、気になる本が一冊あったのでぶらぶらと本屋まで歩いた。徒歩10分のところに有名な大手の書店がある。気になる本と他に3冊買ってしまった。用が済めばさっさと帰るのが流儀だが、今日はめずらしく小一時間立ち読みに耽った。本の論点らしき箇所を探して検証したりアマノジャクに反駁したり……。


ある本には「正論ばかり唱えていると人が離れていく」と書いてあった。

心当たりはある。民心というものは、そうであって欲しくはないと願えば願うほど、明らかに怪しげな方向に流れていく。しかしだ、そもそも何が正論で何が邪論かはよくわからない。ぼく自身、「それ、正論ですよ」と言ってもらうこともあれば、「変わってる」とも言われる。自分なりには、ややアマノジャクながらも本質を衝いているのではないかと思っている。いや、ぼくだけではなく、誰もが多かれ少なかれ自分の意見は正論に近いと自覚しているに違いない。

まあいい。ぼくが自他ともに認める「正論吐き」だとしよう。そうすると、知人も友人も塾生もどんどん離れていくということになる。なるほど、少し当っているような気がする。ここ数年、人脈ネットワークが小さくなっているし、人付き合いもめっきり減ったし、ゆっくり会って飲食して対話を楽しみたい「この人!」も少なくなってきているかもしれない。この分だと、最後の晩餐は一人でメシを食う破目になりそうだ。

だから、それがどうしたというのだ。人が離れていってもいいではないか。小手先の術を使わず、正論漬けで結構だ。モテない男がホンネを捨ててでもモテる作戦を立てるのには賛成するが、この齢で、今さら邪論を唱えて人離れを防ぐ気にはなれない。


別の本は「情報を一元化してまとめる」をテーマにしたベストセラーだ。たしか情報編が先に出て、第二弾は読書編だと思う。

ぼくは情報一元化を自ら実践してきたし、一冊のノートに見聞きした情報やひらめいたアイデアをメモするように勧めている。面倒臭いけれど、読書をして印をつけた用語や傍線部分や欄外コメントも、後日抜書きするのがいい。この本には基本的には賛成だ。

しかし、「情報を一冊にまとめる」の「まとめる」が少し気に入らない。「まとめるテクニック」は著作業や企画業などアウトプットを仕事にしている人には役立つ。たとえば、ぼくの場合。お粗末ながら著作経験があり自前の研修テキストを年間何十と執筆編集する。企画・執筆・講演をつねに意識しているので、活用のためのまとめは重要な作業だ。そういう仕事と無縁であるなら、ノート上のまとめや分類や活用のためのインデックスなどに凝ったりこだわったりすることはない。

情報はテーマページでノートにメモすればいい。読書の抜書きも同じノートでかまわない。インプットする情報がすべてそこに書いてあるということに価値がある。そして、週に一回ほど、そのノートをめくって記憶を新たにし、何か気づいたことがあれば書き加えればよい。まとめることを意識などせず、まずはノートに書く習慣になじむことだ。これまで何もしてこなかった人なら、その習慣だけで思考とコミュニケーションスキルは見違えるようになる。

誤解なきよう。ぼくのように「情報一元化の習慣」を単刀直入に勧めて「ハイ、おしまい」では一冊の本は出来上がらないのだ。文庫であれ新書であれ、おおむね200ページの体裁が本の最低条件。だから、幹以外に枝葉が必要になってくる。裏返せば、自分の仕事や状況や現在のスキルに応じて枝葉を適度に剪定せんていするように拾い読みする――こんな読書の方法にも理があることがわかる。    

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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