無知よりも危うい「小知」

正確な定義もせずに「少知しょうち」という造語を使っていた。文字通り「少しだけ知識がある状態」をそう呼んでいた。しかし、同じ読み方で「小知」という、わずかな才知やあさはかな知恵を意味することばがちゃんとあるので、ニュアンスはやや違うのだが、最近はこちらのほうを使うようにしている。この小知には「大知だいち」という、一見対義語らしきことばも存在する。但し、こちらは博識という意味ではなく、見通しや見晴らしのよい知見のことだ。

あるテーマについて対話をしてみようではないか。あるいは第三者として討論に耳を傾けてみてもいいだろう。大知と博識の人はおおむね議論に強いことがわかる。議論に強い人とは、自分の主張をきちんと唱えるのもさることながら、何よりも相手の主張を検証して反駁するのに秀でている。検証反駁とはフィルターをかけることであり、知識が豊富な人ほど各種フィルターを手持ちにすることができる。

一般的には知識がより多いほうが有利に議論を運べる。しかし、この法則は「無知vs小知」の議論にはそのまま当てはまらない。ぼくの経験上、小知は無知を相手にほとんど勝てないのだ。小知の中途半端な分別は、厚かましさと居直りの無知によって完膚なきまでに叩かれる。言うまでもなく、小知は大知や博識にも歯が立たない。つまり、小知は誰にも勝てない。まるでどこかの会社の中間管理職みたいだ。では、「小知vs小知」の闘いはどうなるのか? そんな見せ場もない議論はおもしろくないから誰も関心を示さない。ゆえに、決着がどのようにつくかは本人どうししかわからない。


無知よりは努力もし謙虚でもあるだろうに、なんとも気の毒な小知である。事は知識だけに限らない。少考は無思考より危ういし、わかった気になることはまったくわかっていないことよりも危うい。小知は新しい知を遠ざけ、少考は熟考につながらず、わかった気になることは成長の妨げになる。

「大知へと開かれた、発展途上のささやかな知」を小知と呼んでいるのではない。たとえ今のところ低いレベルにあっても、学習している知はそれなりの強さを発揮できるものだ。ここで問題視している小知は、成熟の様相を呈しながら停滞してしまっている小知のことである。これでは大知や博識に見破られるし、無知からは知ったかぶりを暴かれる。

ぼくの読書三昧構想に応じて、年末に「しっかりと本を読みます」とぼくに決意表明をして正月を迎えた小知の男性がいる。年明けに会って聞いてみた、「どう、本はよく読めた?」と。小知は答えた、「思ったほど読めなかったですが……」。じっくり聞いてみれば、「思ったほど」ではなく、まったく読んでいないことが判明した。決意表明した手前、見栄を張ったのだ。小知特有のさもしい心理である。

小知が無知にも大知にもかなわないのは、無知のように「知らないことを公言できる素直さ」もなく、大知のように「どこまで学んでも人間は無知かもしれないという悟り」もないからである。小知は無知からも大知からも同じ質問をされる――「では、そこんとこ詳しく聞かせてもらえますか?」 この問いに小知はことばを詰まらせる。

投稿者:

アバター画像

proconcept

岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です