街と固有名詞

「ところで、そのおいしかった料理って何という名前?」
「ええっと、何だったかなあ。忘れちゃった」

「すみません、この地図の場所に行きたいんですが……」
「常磐町一丁目ですね。ビルの名前は?」
「わからないんです」

現実というのは固有名詞と不可分の関係にある。固有名詞を伴ってはじめて自分の経験として刷り込まれていく。現実から固有名詞を引き算すると、この社会は……この現象は……というふうに語るしかない。そうすると、固有の経験だったものが概念として一般化されることになる。「高度情報化社会」だの「グローバリゼーション」だのと言って考えを片付けた瞬間、経験もことばも現実から浮遊してしまう。

ぼくたちは自分の考えを語ろうとする時、ともすれば固有名詞を封じ込めてしまいがちだ。考えは一般論へ、そしてできれば普遍性へと赴きたがる。その結果、具体的な日常の現実が剥がされるという負の見返り生じる。自らの反省を込めて言うならば、一部の哲学が得意とする形而上学的な語り口になってしまうのである。

考えはある日突然生起してこない。個人的な日常体験や観察が繰り返された上での考えである。そこにレアなままの固有名詞が散りばめられていて何の不都合もない。何よりも、固有名詞が使われているかぎり、多少の歪みはあっても、現実を見ているはずである。匿名のままで済ませて見ているものとは異なる、一度かぎり、その人かぎり、その場かぎりで見えてくるものがある。


理屈っぽいまえがきになったが、街の話を書きたいと思う。

年初にヨーロッパ鉄道紀行なる番組をテレビで観た。スペイン北東部を旅する取材者が「サラゴサに行くのだけれど、見所はどこ?」と尋ねた。地元の女性が間髪を入れず「ヌエストラ・セニョーラ・デル・ピラール聖堂よ」と答えた。見所とは観光客にとっての名所である。しかし、この女性の誇らしげな話しぶりは、住民にとってもかけがえのない聖地と言いたげだった。ちなみに、この聖堂は世界で初めてマリアに捧げられた教会であり、二百年近くの歳月をかけて建てられたゴシック様式が特徴だ。

東京や大阪も固有名詞である。しかし、それだけでは不十分なのだろう。いや、たとえ東京や大阪と呼んでも、もはや都市と呼んでいるに過ぎず、固有性はすでに色褪せている。ようこそ日本へ、ようこそこれこれの都道府県へ……などでは体験的固有名詞になりえない。もっと小さな単位の現実を見なければならないのである。ヨーロッパの街を旅してずいぶん現地の人たちに見所を聞いたが、彼らはほぼ即答した。お気に入りの街自慢があるのだ。そして、自慢のほとんどはその街の教会であり広場。だから、お気に入りは街の総意とも言える定番でもある。

林立するビル群や新しく建てられたランドマークや巨大ショッピングモールが自慢であってはいかにも寂しい。迫りくる国際観光時代を謳歌しようとしても、それらのPRは長続きはせず、やがて飽きられる。第一、どこもかしこも都会化が進み、名所が伝統や歴史などの固有名詞的価値を孤軍奮闘で背負っている状況だ。海外から極東の小さな島国を眺めるとき、平均点の見所が分散しているよりも、これぞと言う見所が一極集中しているほうが街の魅力がわかりやすい。

ピサの見所は? とピサで尋ねたら、全員が「斜塔に決まってるだろ」と口を揃える。それでいい。とは言え、街の愉しみ方は人それぞれ、その見所の周辺に目配りする旅人も出てくる。ぼくもそんな一人。斜塔から目線をずらして近くの広場に佇んだ。

場所の名称を書いたメモが見当たらない。地図で調べたが不詳。スケッチに光景が残っていても、名を知らなければ少しずつ記憶が遠ざかっていく気がしてならない。

Pisa digital processing

Katsushi Okano
Pisa
2007
Color pencils, pastel (image digitally processed in 2015)

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proconcept

岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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