「傾聴」が誤解されている

仕事や打ち合わせの場面で相手が虚ろなので、「きみ聴いている?」と尋ねる。相手が「はい、聴いています」と答える。それでも、どうも聴いているようには思えない。親しい間柄なら、問いの一つや二つを投げ掛ければ理解のほどを確かめられる。しかし、初対面の相手やさほど親しくもない相手に対しては、確認質問はおろか、「ぼくの言っていること、聴いていただいていますか?」などと聞くこと自体が失礼だ。だから、聴いている姿勢を示す相手に向かって話し続けるしかない。相手が聴いてくれていると信頼して、ぼくは諄々と話し続ける……。

傾聴?傾聴ということばを最初に知ったのは討論術の勉強を始めた19歳の頃である。傾聴力という表現で出合った。身近にある辞書で調べてみればいい。傾聴とは「一心に聞くこと」や「熱心に聞くこと」などの語釈ばかりである。もっとひどいのになると、「耳を傾けて聞くこと」とある。わざわざ説明してもらわなくても、「傾聴」という語そのものに「耳を傾ける」という意味があるではないか。それはともかく、傾聴には「まじめに、誠実に」という言外のニュアンスが漂う。傾聴とは、「まじめに一所懸命に聞く」という程度のやわな行為だったのか。

傾聴が誤解されている。言い過ぎだとすれば、都合よく解釈されていると言い換えよう。傾聴が単純に一方的に聞くことだと思っている者は、人の話をまじめな顔をして聞き、時折りうなずく。だが、黙して語らず。相手が話し終わると今度はあたかも攻めに転じるかのように一方的に喋り始める。ここにおいて、聞く側と話す側は暗黙のうちに役割を分担する。一方的なスピーチが交互に足し算され、双方向に交わる対話というシーンは現れない。傾聴だけをことさら強調しても、人と人との対話は成り立たない。傾聴のためには、まず傾聴に値する発言内容が前提となるはずだ。

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どうやら傾聴は本来の意味から分岐して、いくつかの新しい意味を持つようになったようである。たとえばカウンセリングにおいては、相手理解による、相手自身の理解促進であり、行動のサポートである。また、傾聴ボランティアにおいては、割り込むことなく最後まで話を聞き、考えを理解し思いを受け止めて共感することである。これらの傾聴は、傾聴する側に吐露する相手を受容する余裕があることを特徴とする。自分に困り事や悩み事があれば人の話など聞いてはいられない。

「誤解されている傾聴」とは、もちろんカウンセリングや傾聴ボランティアのことではない。仕事の場面で、あるいはゆゆしき討論の場面で、聞き上手という美名のもとに傾聴を単に頷くことだとしている姿のことである。傾聴は英語の”critical listening“や”active listening“の翻訳と思われる。敢えて訳さなくても、”listening“は聞き流しなどではなく、それ自体が相手の言っていることを理解しながら聴くという意味である。つまり、「批判的に(フィルターをかけながら)脳を活性化して聴く」ということにほかならない。

相手の話していることを分析し判断しなければ傾聴にならないのである。判断をしたり批判したりしていては、理解に支障を来すではないかという反論がある。しかし、自分に対して発言されていることを白紙状態で受け止めることは、聞き流しに等しいではないか。発言内容を判断し批判するのは対話相手の責任として当然の姿勢なのである。聴くとは自分の考えとの照合作用である。海苔の養殖に「のり粗朶そだ」と呼ばれる木や竹は欠かせない。なければ海苔はまつわりつかないのだ。人の話に対しても「脳の粗朶」がなければ、話は無機的に浮遊するばかりで輪郭を形づくってくれはしない。判断や批判というのはこの粗朶に相当する。粗朶でしっかりと意見を聴く。甘ったるい聴き方をしていては相手に失礼なのである。

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岡野勝志(おかのかつし) 1951年大阪生まれ 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター 岡野塾主宰 ヒューマンスキルをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。 マーケティング、コミュニケーションにまつわる企業や人

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