「わかる」ということが、実は「よくわからない」

「クラシック音楽はわからないから、つまらない」。たしか先週だと思う、つけっ放しのテレビからこんな音声が聞こえてきた。小学生のつぶやきだった。わからないから、つまらない……なるほど、そうだろうなと暗黙のうちに同意していた。

ところが、ぼくは大人である。「わからないからつまらない」と簡単に物事を片付けるわけにはいかない。大人だからもう一歩踏み込んでみなければならぬ。そこで自問してみた。わかれば楽しくなるのだろうか? 「クラシック音楽はわからないけれど、なんだか楽しい」は成り立たないのだろうか? そもそも「わかる」とはどういうことで、「わからない」とは何を意味しているのだろうか?

自宅の本棚に目をやって、しばし何段か追ってみたら、「わかる」をテーマにした本で以前ざっと読んだのが4冊並んでいる。ずばり『「わかる」とは何か』、その隣に『「わからない」という方法』、そして『「わかる」技術』に『わかったつもり』だ。よくもまあ、うまく揃っていたものである。これらの本の目次はほとんど覚えていないし再読したわけでもないので、どんな切り口で書かれているのか知る由もない。


それにしても、考えれば考えるほど、「わかる」が結構むずかしいテーマであることに気づく。「クラシック音楽はわからないから、つまらない」と言った小学生の男の子に一度は共感したが、ちょっと待てよ、音楽というものは、それがクラシックであれ童謡であれジャズであれ演歌であれ、鑑賞すればいいわけで、わからなくても問題ないのではないか。もし「わかる」が「理解する」という意味ならば、それこそそんな論理的了解の必要などさらさらないはずだ。

音楽がわかることと算数がわかることは、たぶん違う。算数で問題が解けたり道すじが見えたりするのと、鑑賞者として音楽がわかるのとは根本的に違うはずである。音楽鑑賞や美術鑑賞に際して、詳しい知識を身につけているからといって「わかる」ようにはならない。たしかに「わからない」よりも「わかる」ほうがいいに決まっている。だからと言って、芸術鑑賞において「わからなければならない」必要性やノルマなど一切ない。「こんなもの、わかるってたまるか!」という反発や居直りさえあってもいい。


もしかして学校教育は「わかる」ことを当然のように前提にして成り立っているのではないか。どんなことにも答えがあって、その答えを見つけたら「わかった」と見なし、答えが見つからなかったら「わかっていない」と判定を下す。こんな調子で、「わからないことはつまらないこと」と決めつけるような空気を充満させて、つまらない教育を膨らませているのではないか。

「わかる」の対極に「わからない」があって、その二つの状態しかないのであれば、まるでON/OFFのデジタル処理みたいではないか。そんなバカな話はない。「わかる」にはいろんな程度の「わかる」があり、「わからない」にもいろんな程度の「わからない」がある。人によって度合が異なるものなのだ。「それなりにわかる」という、きわめてファジーな了解の仕方すらある。「わかる」と「よくわかる」の差が、実はよく「わからない」のである。

もしあることについて「完全にわかる」ことがありえないのだとしたら、ぼくたちはたぶんすべてのことについて「あまりよくわからない」状態に置かれているに違いない。そして、たいせつなことは、あまりよくわからないからつまらないなどと刷り込みをさせず、むしろ、あまりよくわからないからこそ楽しいのだという方向へ子どもを導くことだろう。

今日の話、わかったようでよくわからないという印象をお持ちになったのであれば、お詫び申し上げる。

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proconcept

岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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