アートナイフと消しゴム

父親は公務員の傍ら書道に没頭し、やがて五十半ばで早期退職して書家一筋の身となった。器用な人なので著名な師範に師事して篆刻も手掛けた。小中学校時代に手習い経験があったぼくに「やってみたらどうだ?」と道具と石を手渡されかけたが、受け取らなかった。もう四半世紀も前の話である。

数年前、工場で規格外となった消しゴムを大量にいただいた。何十年かけても消し尽くせないほどの消しゴムの山を見て、何か別の用途がないものかと考えた。あるはずもない。ハンコにするくらいしか思いつかなかった。そして、彫ってみるかと思い立った。ゴムなら何とかなるだろうと甘い見通しを立て、オルファのプロ用アートナイフを買ってきたのである。

デザインした反転文字を消しゴムの上にフェルトペンで直接かたどり、左手の親指と人差し指で消しゴムを押さえアートナイフ1本だけで印刻する。文字部分を彫る「陰刻」はさほど難しくないが、文字を残す「陽刻」には神経を遣う。なにしろ素材がやわらかいゴムであるから、アートナイフを1ミリでも滑らせたらおしまい。瞬間接着剤でも修正はできない。ある時期腱鞘炎の一歩手前になるまで560個ほど彫っただろうか。ハンコに付いた印肉をティッシュで拭き取らずにそのままプラスチックの容器にポンと収めていたので、ゴムが容器にぴったりとくっついているのに気付いた。それに、ゴムだけに劣化も早い。と言うわけで、印影をスキャンしてデジタル保存したのである。


篆刻用額縁

デジタル化ついでにネットから額縁をダウンロードして16作品を並べてみた。こうして作品をあらためて眺めていると、彫った文字の意味にその時々の思いが反映され、また、一つの線か流れのようなものがあることに気づく。

【一列目左から】

大局観(たいきょくかん)
物事の全体の成り行きを見通し判断すること。十代の頃、将棋を通じてこのことばを知った。

心如水(しんはみずのごとし)
本質を変えずに水は方円の器に随う。心も本物になれば融通が生まれる。なお、「こころ」と読むと情感過多になるので、ここは真に通じる「しん」と音読みしたい。

虚心(きょしん)
虚心坦懐でおなじみ。わだかまりや先入観のないさまだが、心如水に通じる。
三昧(ざんまい)
我を忘れて一事に専念する境地。心が安定していないと難しい。カラオケ三昧などと言うが、ああいうのは誤用である。

【二列目左から】

自在(じざい)
束縛も支障もなく思いのまま振る舞うさま。自由自在などは、言うは易し行うは難しの域である。
(らく)
一文字なので一応「らく」と読むが、手を抜いたり苦を惜しむという意味ではなく、「たの(しむ)」という作意である。
(ゆ)
「あそ(ぶ)」でもなく「ゆう」でもなく、「ゆ」と読ませる。ゆとりの「ゆ」。余裕綽々に興じるさまである。ぼくの主宰するユーモアの会は〈知遊亭ちゆてい〉と言う。
傾聴(けいちょう)
実は、雄弁よりもたいせつな言語行為だと思っている。語られる言葉やメッセージを身構えて理解するのは、語ることよりもハードルが高い。

【三列目左から】

眼力(がんりき)
「めぢから」ではない。また、視力の良さでもない。物事の是非や善悪を見抜く力のことである。

春夏秋冬(しゅんかしゅうとう)
丸印にして時計に見立て右回りに読む。一人の人生からすればいつかは終わるが、終わるまでは一応巡ることになっている。

人間万事塞翁馬(じんかんばんじさいおうがうま)
計り知れないのが人間の運命。しかし、ここは「にんげん」のことではなく、世間のことである。ゆえに、「じんかん」と読む。

長楽(ちょうらく)
篆刻で人気の二文字。文字通り、長きにわたって楽しむことだが、大袈裟に人生のことを形容するのではなく、飽きずに三昧を楽しむという意味でぼくは使っている。

【四列目左から】

(がん)
何かを得ようとしたら欲が出て願いが叶わない。願っている分にはリスクはない。

知情意創(ちじょういそう)
ギリシア哲学のロゴス・パトス・エトスに近いのが知情意。しかし、漱石の『草枕』の冒頭にもあるように、智に働けば角が立つし、情に棹差せば流されるし、意地を通せば窮屈になる。知情意は「創」につながってやっと完結する。

(えん)
今の繋がりや関わりには不思議な因がある。アナログの縁のみならず、ソーシャルネットワーク上の情報や写真も縁となった。かと言って、目くじらを立てることはない。それが当世というものだから。

妙言無古今(みょうげんにここんなし)
よいことばはいつの時代も名言であり続ける。そんな普遍的価値を湛えることばは潜在しているが、見たり聞いたりすることはめっきり少なくなった。

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proconcept

岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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