犬と猫の夜語り
世には犬を疎ましく思ふ者があり、猫を毛嫌いする連中もゐる。人といふのは身勝手なもので、己の度量と器量の無さを棚に上げてゐるくせに、やれ犬はこれこれ猫はかれこれだと、些細な欠点に目くじらを立てては大仰に騒ぎ立てる。これ即ち当世の習はしのやうである。
占い師に犬は貴家の相には合はぬ、八卦見に猫は不吉なりなどと告げられると、主人は手のひらを返して昨日の友を今日の敵のやうに扱ひ、何事をも憚ることなく平気な顔をして見捨ててしまふ。飼ひ主に手を噛まれた挙句、住み家を失つた犬猫諸君は、もの悲しげな鳴き声を交わしながら、朝な夕な一つ処に身を寄せ合つてゐるさうな。
雲行きの怪しいある日の夕暮れ時、淋しい表情を浮かべた新入りの犬君に向かつて猫嬢が囁いた。
「あなたもお気の毒なお方ね。わたくしたちは、ついこの前まであれほど幸せさうなあなたを見て羨ましく思つてゐたのですもの。」
「世の常なのでせう。若主人が妻を娶られ、お仕えする方が一人増えたと喜んでゐたら、その嫁は大変な犬嫌ひ。猫なら愛らしいが、犬はどうにもかうにも好きになれぬと主人に泣きついた。その一言で、数年来お供してきたぼくは追ひ出されてこの有様。情けなくて涙も出なかつたといふ次第。」
「わたくしもさうだつたのです。うちの主人は一人暮らしのご隠居さん。それはそれはわたくしをよく世話してくれましたわ。ところが、先日、家に泥棒が押し入つた折り、わたくしときたら見てゐるだけでどうにもできなかつた。隠居さん、帰つてきてびつくり仰天。後生大事にしてゐた掛け軸が盗られてゐたのです。それからといふもの、猫は役立たずだ、犬なら吠えて用心になつたのにと八つ当たり。放り出されはしなかつたけれど、居たたまれず家を後にしたのです。」
「可哀さうに……。」 犬君は目を合はせることができず俯いた。
ちやうどその時、空が突然真つ暗になり大粒の雨が降り始めた。雨は激しく軒先を叩き耳を劈いた。互ひの声は土砂降りの雨音に掻き消されて聞き取れない。犬君と猫嬢は語り継ぐ言葉を失ひ、黙つてそれぞれの昔を懐かしんでゐた。
雨が小降りになるのを見計らつて、猫嬢が口を開いた。
「ねえ、捨てる神に拾ふ神と云ふぢやありませんか。あなたとわたくし、互ひの古巣を取り換へるのはいかがでせう。」
「取り換へる……。」 犬君、意味を解せず、不思議さうに猫嬢の顔を見つめた。
「さう、何となく迷つた振りをして庭へ入り込むのですよ。どう転ぶかわからないけれど、もしかするとうまく行くかもしれないわ。だけど下心を見抜かれないやう用心は必要です。」
「なるほど。猫嫌ひになつた隠居さんちへぼくが行き、犬嫌ひのうちの若主人ちへあなたが行く。これはやつてみる値打ちがありさうです。」
「雨宿りを装ふには願つてもない吉日。では早速……」と言ふや否や、猫嬢は路地の塀を身軽に乗り越へて屋根向かうへと消えた。犬君も表通りに出て隠居の家の方へと駆け出した。
その日から幾日かが過ぎた。犬君も猫嬢も首尾よく後がまに居座つて幸せに暮らし始めた様子である。
さらに幾日かが過ぎた晴れた日の夕刻。猫を腕に抱へた女と犬を連れた老人が路地で出くわした。互ひの生き物に一瞥をくれて、おのおの心中冷ややかに呟いた。
(まあまあ、うちの捨て犬を連れて町ん中をお歩きだなんて……。物好きな方もおありだこと。)
(ほほう、あの薄情猫か。小汚いのを大事さうに抱いてゐるわい。ほどなく泥棒に空巣狙いされやう。)
犬君も猫嬢も飼ひ主二人の想ひを見透かしたのは言ふまでもない。犬君、夕闇の満月に向かつて「わおぅぅぅん」と誇らしげに吠へ、猫嬢、甘い声で「みやぁぁぁお」と鳴いて応へた。
岡野勝志 作 〈1970年代の短編習作帖より〉