言語の五技能

他に適語が見つからないので、一般的な「技能」という用語を使っている。機能や働きでもいいのかもしれないが、分かりやすさと語調の良さから技能を選択した。言語学者ソシュールは、言語をシニフィアン(能記=記号表現)とシニフィエ(所記=記号内容)に分けて言語の本質に迫った。今回はそれとは違って、言語活動面から五つの技能について考えてみる。

言語の五技能五技能としたものの、まずは四技能から話を始めよう。ぼくたちは、ことばを音声にして話し、音声として聴く。音声を用いない時は文字にして書き、文字として読む。これらの《話す・聴く・書く・読む》の四つの技能は、表現と認知に分けることができる。すなわち、話す・書くという表現系技能と、聴く・読むという認知系技能である。

知っている語彙は、認知はできるが使えないものと、認知も表現もできるものとに分類できる。たとえば、「渺渺びょうびょうたる」が果てしなく広いという意味であることはわかるけれども、会話や文章で自ら使うことがない場合、これは認知語彙ではあるが表現語彙になりえていない。認知語彙はつねに表現語彙を含み、表現語彙よりも多い。だいたい《認知:表現=3:1》と言われている。ところで、知識や経験は表現のための原資と言うよりも、他者が話し書くことを認知するために用意されるものだろう。ある程度知らなければ、また、ある程度類推を働かさねば、ぼくたちは他者のメッセージを理解できはしない。表現というのは、知識や経験の多寡とは関係なく、その気になれば、知っている範囲内でこなせるものである。千語もあれば話すことはできるが、千語程度では他人様の言うことや書いていることはよく分からない。

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これら四技能の関係図の上に「考える」という技能を加えて五技能としてみると、言語と思考のつながりが見えてくる。四技能はいつでもきちんと機能するわけではない。必ず誤作動を起こす。言い間違い、書き間違い、聴き間違い、読み間違いである。ところが、考え間違いというのは自分も他人も気づきにくい。なぜなら、思考という技能は他の四技能に比べて共通項が少なくパターンが多いからである。つまり、個別であり多様なのだ。では、どんな時に考え間違いに気づくのか。書いてみて気づき、他人が書いたものを読んでみて気づくのである。音声の技能だけでは思考の精度を見極めにくいのだ。議論でディスコミュニケーションが生じやすいのも頷ける。

「考えていることを文字で表わせばいい」とまことしやかに語られるが、ぼくはここに書いている文章のようにあらかじめ考えているわけではない。書こうとしていることが頭に浮かびはしているが、それは輪郭のない茫洋としたものである。書かずに考えることがないわけではない。しかし、「言語的に思考していること」と「いまここで書いている言語的表現」はまったく同じではない。考えていることはここに書いているほど明快ではなく、また、考えている時の語彙は文章を綴っている時の語彙ほど豊かではない。書くという表現行為によって、思考に形を与え、考え間違いを検証し修正していくのである。

思考することが表現をもたらす温床であり細胞核であることを認めるにしても、考えていることを紙の上に単純に書き写しても文章の体を成すことはない。書かなければ考えたことにはならないとまで極論しないが、ほとんどの場合、書いてはじめて思考はその姿を現わす。書かなければ、考えるということは実に摑みどころのない虚ろな状態にとどまる。腕を組んで考えても、その考えはひ弱で無定形な感覚の域を出て来ない。ぼくの主張に説得力がなければ、最後に次の一文を参考にして考察していただきたい。

思考が、言葉となったり他人に伝達されたりする際のわずらわしさを避けて、ただ自分に対してだけ存在することに満足してしまっていたら、そんな思考は生れるや否や、たちまち無意識に陥ってしまうだろうし、自分に対してさえ存在しないということになってしまうだろう。 (メルロ=ポンティ『知覚の現象学』)

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proconcept

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岡野勝志(おかのかつし) 1951年大阪生まれ 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター 岡野塾主宰 ヒューマンスキルをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。 マーケティング、コミュニケーションにまつわる企業や人

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