響かないメッセージ

ある企業の敷地に芝生を敷き詰めた小さな広場があった。芝生以外に標識はない。「この広場に名前を付けていますか?」と尋ねれば、特にないとの返事。邪魔にならないようにネームプレートを掲げると、目に止まった人に親近感が湧くかもしれないと助言した。

ところで、芝生の広場に名前が付いていることはめったになく、囲い込まれた敷地内であるにもかかわらず、目撃するのは「芝生内立ち入り禁止」という表示のほうである。そこに足を踏み入れて欲しくないのが本意であっても、そんな注意書きを掲げるのはよろしくない。せっかくの空間が台無しになってしまうからだ。標識を掲げるなら広場の名前のほうがいいに決まっている。

「芝生に入るな!」の一言は、芝生をそこに植えて美しく演出しようという意図なり動機なりに反するのである。街中を見渡せば、注意を促し禁止を謳う表示板のお祭り大会が開かれているかのよう。電車に乗って耳に入るのは、「駆け込み乗車は危険ですのでおやめください」「お忘れ物のないように」「優先座席付近では携帯電話の電源をお切りください」等々。ドア回りにはこれでもかばかりにシールが貼ってあって「指づめに注意」をはじめとする各種禁止のアイコンが目立つ。本来乗客に必要なメッセージをマナーを正すメッセージが圧倒している。

重要だが気がつきにくいことはある。そこのところに注意を促されればありがたいと思う。だが、ほとんどの「何々してはいけない」は言語化以前に自明なのである。自明であるならば、常時公共の場で生活し行動する成人に向けてわざわざ伝えることはない。社会は「成人はコモンセンスを備えている」という前提に立つからである。中村雄二郎は『共通感覚論』で、「(……)実際的な理解力であり、物事を正当な光のなかで見る人々の能力であり、そして健全な判断力である」と、コモンセンスを明らかにしている。いちいち誰かに諭されなくても、大人ならある程度は分かるでしょ、ということだ。


もっとも、注意事項を発する側からすれば、分かってもらえないからこそ敢えてことばにしているのだと理屈の一つも言いたくなるのだろう。しかし、その伝でいけば、公共の場で素っ裸はいけないから「汝、衣服を纏うべし」と言い、また、盗むことがよくないことを理解しない者がいるから「汝、盗むべからず」と言わねばならなくなる。

度を越せば、注意の理由にいちいち注意書きを付けることになりかねない。なぜ衣服を纏わねばならないのか、なぜ盗んではいけないのかと。自明であることをわざわざ明文化しようとする際には、誤解を恐れるあまり饒舌な注釈が足されるものなのだ。なお、しかるべき場所に「駐車禁止」と貼り出す類いは、一見注意に見えるが、実は情報提供であるから、許容範囲なのである。但し、「近隣の迷惑になるので」という追加情報は野暮である。

植木と隠しカメラ

いつもの散歩道から少し外れると、車道寄りの歩道に十いくつかの植木鉢が並んでいる場所がある。歩道を挟んで商店兼住居があり、その住人が育てているようである。いつもシャッターが下りていて、どうやら開かずの店らしい。商売をしている様子はない。シャッターには「猛犬に注意」というシールが貼ってあるが、犬を飼っている気配はない。植木鉢を置いている場所は公共の歩道であって、明らかに住人の土地ではない。一本の植木にかなり目立つ表示板がぶら下がっていて、そこには「かくしカメラを設置しました 花、木、実を持ってかえらないで下さい」と書かれている。

丁寧に扱われている様子もなく、おそらく置いてはいけない場所に適当に置かれている、さほど美しくもない植木に植木鉢。景観や美化に役立っているとも思えない。それでも、不器用ながらも、いいことをしているつもりなのだろう。ほとんどの住民、通行人はコモンセンスの持ち主である。性善説的に考えるなら、この注意書きはコモンセンスには不要である。コモンセンスを欠く盗人に対しては、そこに何が書いてあろうとも、少々の文言では抑止力にならない。いや、むしろ、「花、木、実を持って帰ってやろう」という愉快犯罪を助長しかねない。隠しカメラなどないことは見え見えである。

注意書きのほとんどは、承知している者には響かず、また、承知していない者または注意に反しようとする者にも響かない。つまり、要らないのである。コモンセンスを欠く少数派のために無意味な公共メッセージを量産してはならない。どうしようもない連中には、言語ではなく別の方法――制裁や抑止力――を用意するしかないのである。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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