感応と響き(一冊の本を巡って)- 1 –

三回に分けて書こうと思うが、分割しても今日の文章は長くなりそうだ。一読して、少しでも気に入っていただけたなら、近いうちに書くつもりの続編にも目を通していただければ幸いである。

さて、ものを考えて人に話を聴いていただくのがぼくの仕事の一つである。考え話す素材のほとんどは、自分の経験をまさぐってあぶり出すか、読書や他者との交流を通じて新たに見つける。この他者との交流の中で軽視できないのが学び手からの学びである。ぼくから学んでくれる人々からぼくもまた多くのことを学ぶ。自分一人では考えようともしないことを学び手からの刺激によって考え気づくようになる。打てば響く学び手からの問いに答えようとして考えるし、打てども響かない学び手からも「なぜ彼らが機を見て敏ならぬのか」を考え、それもぼくの勉強になっている。

四年前にフェースブックでNさんという46歳の男性と知り合った。半年後の20123月、彼は友人のKさんとぼくのオフィスに遊びに来た。食事をし、場所をバーに移し、夜遅くまで談論風発が続いた。ぼく以上の饒舌家はあまりいないから、例によってほとんどぼくが話していた。合間にNさんは不器用な――時には粗野な――表現で、好奇心旺盛な子どものように目を輝かせて問いを投げ掛けてきた。ぼくのことばにペンを構え、そしてすばやくメモを取り続けた。問いと学びの姿勢に久々にオーラを感じさせる人物だった。タクシーに乗る彼らを見送った。NさんとKさんは京都へ帰らねばならないのに、大阪駅でプラットホームを間違えて三宮方面に行ってしまった。話し込んでそうなったのか、居眠りをしていたからなのかは知らない。翌朝、Nさんにメールを送り、返信も受け取った。

おはようございます。なかなかの夜でした。あなたの打てば響く機敏な反応ぶりと霊性(精神的純度)の強さが伝わってきました。ほぼ想像通りの粗っぽい性格の人物でしたが、未完成の「知軸」もお持ちでした。ぼくの口癖の 「知は力なり、知は愉快なり」が証明できた夜でした。人は感情的になって頭に熱が上ると措置を誤る。己の乱れを宥めるのはつねに知の力だろうと思います。整体があるなら、「整知」があって当然。まあ、このあたりに自分より若い人にしてあげられるぼくの役割があると思うわけです。 ごきげんよう、また会いましょう。

先生、 ありがとうございます。最高に学び、喜びを得た日でした。なんか、身に覚えのない世界にタイムスリップした感じです。ふだんメモを取らない自分があんな風に自然とメモをとり必死で貪る姿が不思議でもありますが、新しい自分の芽生えを感じております。これからも貪欲に学ばさせて貰います。会社からお借りしました本はやはりおもしろいです。

最後の一行。別に返却してもらうつもりのない本だったが、貸し出したスタッフが一応本棚に貸し出しメモを貼り付けていた。偶然だが、そのメモが一昨日目に入り、ふと「そう言えば、ぼくのブログの熱心な読者なのに、最近フェースブック上で見てくれている気配がないなあ」と気になり、彼のウォールを覗いてみたのである。そこに複数の方々からのご冥福のことばや弔辞を見つけた。Nさん、享年五十。去る8月末に亡くなっていた。昨日そのことを知った。あのタクシーに乗るのを見送ったのが最後になった。

彼からは読書や勉強について実にたくさんの質問をもらい、ぼくも響く人への面倒見がまずまずいいほうなので、分かる範囲で答えるように努めた。数か月ほどの間におそらく50往復以上のやりとりがあった。ぼくがブログで哲学者ウィトゲンシュタインとその著『論理哲学論考』のことを書いて以来、それを読んだ彼は一変したかのように考えることのおもしろさにのめり込んで行ったように思う。ウィトゲンシュタインと言えば、知的ダンディズムをくすぐる名言を数多く残している。「私の言語の限界が私の世界の限界を意味する」「思考しえぬことをわれわれは思考することはできない。それゆえ、思考しえぬことをわれわれは語ることもできない」「世界と生はひとつである」「論理学の命題はトートロジーである」……。

ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考

哲学などとは無縁だったはずのNさんが早速『論理哲学論考』を読み、ある日唐突に「先生、三・〇三二一がよく分からないんです」というメールを送ってきた。ちなみに、この本は断章的に書かれた哲学書で、アブストラクト構造を持つすべての断章に番号が振られている。三・〇三二一とは「なるほど物理法則に反した事態を空間的に描写することはできよう。しかし、幾何法則に反した事態を空間的に描写することはできない」という断章だ。彼の「よく分からない」に対して、やや独善的で極論かもしれぬと承知の上で下記のようにヒントを授けたのである。


三・〇三二一から来ましたか……驚きました。本書の翻訳者の野矢茂樹も、『ウィトゲンシュタイン入門』を書いた永井均も、『ウィトゲンシュタインはこう考えた』の鬼界彰夫も、あなたが着眼した項目には触れていないようです。ぼくも分かったような気がして読み飛ばしていたかもしれない。『論考』はいろんな翻訳で何度も読んではいますが……。結論を急ぐ前に、この断章の前段を考察してみたいと思います。

三・〇一  真なる思考の総体が世界の像である」。これは、ぼくたちの考えていることのすべてが世界の見え方そのものということですね。たぶん。
「三・〇二  思考は、思考される状況が可能であることを含んでいる。思考しうることはまた可能なことでもある」。思考できることをぼくたちは思考と呼んでいる、だから思考と思考可能はイコールだ、と言っているようです。
「三・〇三  非論理的なものなど、考えることはできない。なぜなら、それができると言うのであれば、そのときわれわれは非論理的に思考しなければならなくなるからである」。思考は論理そのものなので、非論理的なことは思考しえない。非論理的思考などというものはそもそも存在しないのです。
「三・〇三一  かつてひとはこう言った。神はすべてを創造しうる。ただ論理法則に反することを除いては、と。――つまり、「非論理的」な世界について、それがどのようであるかなど、われわれには悟りえないのである」。神は論理法則にのっとったものなら何でも創れる。神が創りえない非論理的な世界をぼくたちごときが語ることなど到底できない、ということでしょう。ここまで来れば、次の三・〇三二は自明ですね。
「三・〇三二  「論理に反する」ことを言語で描写することはできない。それは、幾何学において、空間の法則に反する図形を座標で表わしたり、存在しない点の座標を示したりすることができないのと同様である」。論理に反すること、すなわち非論理的なことを言語表現することはできません。空間法則に反する図形が描けないというのもわかりますね(言語にはすでに論理構造が内蔵されている、とぼくは考えています)。
そして、いよいよお尋ねの三・〇三二一です。「なるほど物理法則に反した事態を空間的に描写することはできよう。しかし、幾何法則に反した事態を空間的に描写することはできない」。難しく考える必要はないかもしれません。物理法則に反した事態、たとえば「リンゴが地面から木に上がる」というような事態を空間的に描写、たとえばアニメにして表現はできますね。でも、物理と幾何学は違いますから、「図形の法則に反した事態を空間で図形描写することはできない」。そう、当たり前のことを言ってるんですよ。このことを導くために、思考と世界の見え方、思考とその可能性、論理的であることなど、三・〇一から三・〇三二までの前提を置いたのですね。以上がぼくの説明です。


 何度読んでも難解なのである。こんな話に食いつくのは、ある意味で変人なのである。正直なところ、ぼくは理解してやろうなどとは思わず、思考訓練として『論考』を読んできた。だから、こんな説明でいいのか、今読み直してみて十分に自信はない。しかし、それまでの人生でまったくこういう本を読んだことのないNさんの腑に落ちたらしかった。「なるほど! わかりやすい~。スカッとしました!! これからの考察が見えて来ました。ありがとうございます!!」というメールが来た。大量の文章を書いたのはいつもぼくであった。しかし、感謝しなければならないのはむしろぼくのほうなのかもしれない。彼がぼくに感応して響き、ぼくに考える機会を与え書かせてくれたのだから。

《続く》

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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