言を慎むな

口は一つ、耳は二つ

昨秋、近所の寺の掲示板に「口は一つ、耳は二つ」という墨字が貼り出された。住職は気に入っているらしく、これが二度目だ。単に顔の物理的特徴を示したわけではない。そんなことは言われなくても、毎日鏡を見て承知している。注釈に「よく語ることよりもよく聞くことが大切」とあったから、顔の説明ではなく訓戒を垂れたのに違いない。

この時代に、喋るよりも聞くほうが重要だと言い切るとは実に思い切りがいい。喋ることを聞くことの下位に置く主張に対して、ぼくは真逆の意見の持ち主なので、無性に戦闘意欲が湧く。同じ類いの「沈黙は金、雄弁は銀」にも「賢者は黙り、愚者は語る」にも異議ありだし、アンチテーゼをぶつけるだけの相応の論拠も持ち合わせている。後者などは老子のことばだが、相手が老子だろうと他の偉人であろうとひるまない。

洋の東西を問わず、「ことばを慎め」の類の格言は枚挙にいとまがない。いくつか取り上げてみよう。

舌は人を破滅させる。(古代エジプト)

舌を滑らせるくらいなら、足を滑らせるほうがましだ。(アラム)

賢人の舌は胸の内に、愚者の心は口先にある。(旧約聖書)

喋ってから口に手を当てても遅い。(フランス)

口は災いの元(口は禍の門)。(中国)

わずか一言でも下手に受け取られると、十年の功績も忘れられてしまう。(モンテーニュ)

鵜呑みにして実践していれば、事を荒立てない、長い物に巻かれるなどの処世術はある程度身につくかもしれない。なお、話すこと、ひいてはことばがよい意味で使われる時はつねに「心のこもった」とか「親切な」という修飾表現が伴う。たとえば、「親切な言葉は、蜂の蜜ふさのようだ。魂に甘く身体のためにもなる」「心のこもった言葉は三冬の間、寒さを感じさせない」「親切な言葉は冷たい水よりも喉の渇きを癒してくれる」という具合だ。


言を慎めというのは処世術である。処世術では危険を冒さない、無難な生き方が奨励される。したがって、人と人が語り合い、意見の違いを乗り越えるようなことを教えない。闘争的コミュニケーションをするなどはもってのほかだ。但し、その代償として言語明瞭性を失うことになる。言語は思考に関わるから、ことばを二の次としていては考えることを放棄することになりかねない。「口は一つ、耳は二つ」と言うなら、頭も一つだ。なるほど、だから考えるよりも聞くのがいいと言うわけか。

勘違いしてはいけない。先に挙げた格言を残した賢人たちは処世術を説いたのであって、コミュニケーションスキルを教えたのではない。仮にコミュニケーションのコツを伝授したのであったなら、聞くことを喋ることの上位に置いたのは知見不足と言わざるをえない。誰かが話すのを前提としなければ聞き上手は生まれない。赤ん坊は聞く行為から言語を高度化していくのだが、それが可能になるのはことばが飛び交う動的場面で育つからだ。そして、聞くだけでなく必然話すようになる。話さねば生きづらいからである。にもかかわらず、大人になって組織に入って世渡り上手を目指すにつれて言葉少なになる。この時代にあっても「口は一つ、耳は二つ」の類の教えが、ぼくの知る多数の組織で今も優勢であるのは嘆かわしい。

同時に、こうした教えと同期していては仕事にならない現実がぼくの周辺ではっきりしてきた。寡黙な人間から創造的なアイデアは生まれなかったし、省エネ話法のコミュニケーションに終始する者は消えていった。聞き上手や無口な者は語るタイミングを見極められない。やがて人間関係上の力学に支配されて意見を述べる機会すら失う。ところで、冒頭の寺だが、翌月には「みんな違っていい」を貼り出した。「みんな違っていい」は十人十色という異質性の訴えではないか。黙って聞いていれば「みんな同じ」に見える。人と違う個性を生かそうとするならば語らねばならない。もっと言えば、みんな違っていいのなら、「よく聞くことよりもよく語ることが大切」を実践してまずいはずもないだろう。

投稿者:

proconcept

岡野勝志(おかのかつし) 1951年大阪生まれ 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター 岡野塾主宰 ヒューマンスキルをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。 マーケティング、コミュニケーションにまつわる企業や人

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