ぼかし言葉よりも議論の心得

「ぼかし言葉は現代の若者に特徴的ではなく、昔から日本人は婉曲表現をよく使ったものだ」云々。この主張を聞いて、すんでのところで相槌を打つところだった。他人の話は聞き流してはいけない。疲れているときは特に要注意だ。ぼかし言葉と婉曲表現に重なりはある。クッション効果が生まれるという点では近い。しかし、両者の機能は根本が違う。

ぼかしことば

ぼかし言葉は無意味な補助機能にすぎない。「ぼく的にはノーって感じなんだけど、イエスでもいいみたいな……」という言い回しはことばも意味もぼやけている。ノーかイエスか、結局どっちなのかよくわからない。これに対して、遠回しな表現に置き換えるのが婉曲である。相手をおもんぱかって、タブーに触らぬよう、不快にさせぬよう、露骨にならぬよう言い換える。婉曲的に言っても相手に意味が伝わる。「お手洗い」と言えば便所のこと、「逝去」と言えば死んだということだ。ストレートに使うと耳障りかもしれないと案じて、棘のない別の表現で代用する。表現にぼかしは入っていない。

「わたし(ぼく)的には~」「~みたいな」「~という感じ」などが当世のぼかし言葉の代表格と言われる。ものをずばり言わないクッション機能を特徴としている。婉曲話法と違って、「~」に入れるべきことばは通常会話で用いることばと同じ。断定、明言、極論を避ける心理が働いているだけで、言い換えの工夫は凝らされない。ふつうに喋って何の問題もないところなのに、なぜ敢えて意味不明瞭にしてしまうのか。なぜ意思疎通コミュニケーションのほうにではなく、意思不通ディスコミュニケーションのほうに傾くのか。理由はいたって単純だ。波風の立たぬ浅瀬の水遊びのような会話でその場を済まそうとするからである。


とりとめのない会話ならいざ知らず、テーマのある対話では当然議論が生まれる。議論は場の空気を緊張させる。これを嫌がれば、上っ面だけの潤滑油でやりとりを和らげるしかない。こうして、ぼかし言葉が無意識のうちに使われる。会うのが一度きりの相手に対しては強気にホンネを吐くくせに、明日、明後日、その先何度も会う相手とのぎすぎすした関係は避けたい。双方がそう思えば、対話をしても「危険区域」に足を踏み入れない。バーチャルなお友達関係で良しとすれば、批判めいた言は首をすくめたままだ。議論はそんなに関係を危うくするものか。いや、真の信頼関係があれば議論で後味が悪くなるはずがない。

対話の際に意見を述べる。意見とは主張だ。加減したりトーンダウンしたりぼかしたりする主張などというものはない。主張とはある意味で「強弁」なのである。必然、相手の言い分を検証して批判する場面も出てくる。だが、対話は交渉ではない。交渉は合意を目指す。その過程で決裂もありうる。交渉の常として勝ち負けはつきまとう。だから、負ければ口惜しくもなる。翻って、対話は合意を目指すものではない。「意見が一致した」というのは議論の結果にすぎない。では、ぼくたちが対話で重視すべきは何か。双方が持論とする意見を相互に検証することだ。対話とは――そして、それに伴う議論とは――「異種意見間検証」にほかならない。

自論と相容れない意見には問いを立てる。納得できる点と疑問点のどちらも洗い出す。自分の検証フィルターを通り抜けてくる主張ならひとまず受容する。相手も同様のプロセスを踏む。こうして彼我の主張を天秤にかけ、相手が自分よりも先を読み、広く深く考えていると判断すれば素直に認めればいい。お互いがこのことをわきまえるべきである。だから、議論の前提には共通ルールが必要になる。チェスや将棋と同じだ。第三者なる審判がそこにいなくても、議論してみれば勝ち負けは自明になるものだ。負けているくせに相手を認められないのは我見が強いからである。我見は思考強化も人としての成長も阻む。

さて、ぼかし言葉でお茶を濁すような、名ばかりのコミュニケーションで日々を過ごすか、それとも直截的かつ明快な表現で議論できる関係を築くか……前者は無難だが、スリルとサスペンスを求める向きには後者のほうが圧倒的に愉快なはずである。

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岡野勝志(おかのかつし) 1951年大阪生まれ 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター 岡野塾主宰 ヒューマンスキルをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。 マーケティング、コミュニケーションにまつわる企業や人

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