ALLとSOME

一昨日、関東へ赴いた。心の赴くままではなく、半日セミナーで小難しい話をするため。論理とディベートの話だが、論理のほうに軸足を置いた構成にした。この論理というテーマ、二十代に出合った頃は難攻不落だった。三十代になって難しさが小難しさに変わり、薄っすらと明かりが見え始めた。そして、四十代になって輪郭がだいぶはっきりしてきた。『論理的思考』と題して数時間以上話せるようにもなった。

とは言え、この十数年で論理についての考え方は大きく変わった。まず、頭の中の論理的思考など見えるはずがないと懐疑した。便利なことばなので、英語の“logical thinking”ロジカルシンキングも当り前のように使われるようになった。しかし、Aさんの思考自体が論理的であるかどうかは本人にも他の誰にも確かめようがない。Aさんが書いたり語ったりしてはじめて、筋道が通っているかどうかが分かる。論理はことばに宿る……コミュニケーションの論理は思考の論理に先立つ……こんなふうに考えるようになった。論理は他人によく理解してもらうために欠かせない。論理はことばを明快にする上でたいせつであり、その結果として、自分の考えの整理に役立ってくる。

文と文がスムーズにつながっていれば話は明快になる。つながりの役割を果たすのが接続詞だ。論理学では、前の文を前提、次の文を結論などと呼ぶが、その二文を「ゆえに」や「だから」などの順接接続詞で結ぶ。留保したり否定するときは、「しかし」や「だが」などの逆接接続詞を使う。接続詞は二つの文の関係性を明らかにする。さらに、一文だけを見ても、単語と単語の関係や連句・連語という形で論理が機能する。ここに、肯定や否定、選言や連言が加わる。数ある説明のうち、大森荘蔵の『流れとよどみ――哲学断章』の説明が分かりやすい。

「……でない」という否定詞、「……かまたは……」という選言詞、「……でありまた……」という連言詞、「……はみんな」という総括の言葉、それに「何々は……である」の「である」、この五つの語がどのように使われるかを規則の形で書きあげたのが「論理学」なのである。

ALL or SOME

書きたいことは山ほどあるが、話を「……はみんな」という総括に絞る。「みんな(すべて、あらゆる)」と「いくつか(一部、あるもの)」を対比させるほうが話が明快になると思うので、手っ取り早く“ALL”“SOME”で表わしておく。


口癖のように「日本人はみんな」と主張し、「ありとあらゆる要素」と豪語し、「こちらの商品、皆さんお買いになっています」と一般化する。一部の人間の集まりに決まっているのに「みんなの党」が存在したし、「なぜわたしだけ? みんなやってるやんか!?」という大阪ローカルの公共コマーシャルがあった。ALLを含む文や語は威勢がいい割には、実質ALLとはほど遠い。科学の帰納的方法を尽くせばALLに言及できるかもしれない。たとえば万有引力の法則のように。しかし、凡才にはALLは手に負えそうにない。謙虚にSOMEに限定して語っておくのが分相応だと思われる。なお、「ほとんどの場合」というのは、SOMEであってALLではない。念のため。

ALL命題に全幅の信頼を寄せると虚偽の一般化という落とし穴にはまりかねない。「百人中百人すべて」を100/100と表わすとしよう。「全員が男」を証明するなら、帰納的に一人ずつ調べていけばいい。この分母と分子サンプルは少なければ少ないほど検証は簡単だ。中小企業が「当社の社員十人はみんな営業上手である」と、10/10の証明をするのはさほど難しくない。しかし、一億人分の一億人(100,000,000/100,000,000)になると、すべての要素の証明はもはや不可能。数字が大きすぎるとコミカルにさえ見えてくる。したがって、「一億総活躍社会の実現」などは論じたり解いたりできる命題にはなりえず、確証のない幻想的スローガンに過ぎないことに気づく。

評論家の大宅壮一の造語「一億総白痴化」は一時期一世を風靡した。ちなみに「いちおくそうはくちか」をぼくのPCは「一億蒼白地下」と変換した。一億人みんなが白痴になったら地下に眠るご先祖さまは蒼白状態になるだろう。半世紀以上前に生まれたこのことばはテレビ普及が進む世相を批判した。テレビは人から想像力と考える力を奪い、日本人全員をおバカさんにしてしまうという推論。言うまでもなく極論だが、一億総活躍よりも「らしく」見えてしまうのは、ぼくがアマノジャクのせいばかりではなさそうだ。それほど、一億総活躍社会のALLの論理は危うい。叶わぬまでも理念や願いを抱くのはいいことだ。しかし、表現のおもしろさに直感的に飛びついたのだったら、これから先、どうやってコンセプトとコンテンツの辻褄合わせをしていくのか。こじつけっぽくなりそうな予感がする。

一億総活躍社会が今年の新語・流行語大賞の一つに選ばれた。今日のところは選考者を責めないでおく。ともあれ、「一億総○○」は大宅壮一がすでに創案したのであるから、新語とは言えない。だから、流行語として選ばれたことになる。いかにも表現上のファインプレーを狙った感が滲み出ている。そして、流行語であってみれば、一過性の話題特有の短命を予感させる。どう考えても、一億人みんなが活躍できる社会が実現するとは思えない。まだしも、国際競争力を強化したい分野の中小零細企業の人材総活躍を目指すほうが策の立てようもあるのではないか。

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proconcept

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岡野勝志(おかのかつし) 1951年大阪生まれ 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター 岡野塾主宰 ヒューマンスキルをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。 マーケティング、コミュニケーションにまつわる企業や人

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