定義という奇怪な存在

言うまでもなく、一冊の辞書にはおびただしい言語情報が溢れている。表記に始まり、語釈、品詞の別、複合語・慣用語、さらには用語の履歴や出典までを網羅している。ことばの意味を調べるとは、「用語の定義」を知ることである。ことばの意味はいくらでも広がる。人それぞれである。それらすべてを標本のように集めてもキリがない。だから、辞典は意味に制限を加える。意味の頻出度と共通認識の方向からの絞り込みである。辞典は「ことばの意味」を収録したものではなく、「定義を編集したもの」なのである。

定義は辞書編纂者たちの主観によっておこなわれまとめられる。辞典を活用するぼくたちからすれば権威あるその一冊はまるで科学法則で固められた客観的存在に見えているだろうが、作成者側に回れば、紙数と発行日を睨んでの主観のせめぎ合い、主観による取捨選択という作業がおこなわれている。

辞書は、言うまでもなく、「じしょ【辞書】」そのものを定義している。手元の『新明解』では、「ある観点に基づいて選ばれた単語(に準ずる言葉)を、一般の人が検索しやすい順序に並べて、その発音・意義・用法などを書いた本」とある。「いまあなたが見ているこの本」と書いてもいいわけだから、編集が主観的であることがわかるだろう。ご丁寧に「一般の人が検索しやすい」と記されているのがおもしろい。一般の人とは辞典の活用者であり、編纂者のことではない。彼らは専門の人である。


繰り返すが、辞典を使っても「本質的な意味」などわからない。わかるのはその辞典の編纂者がその用語について解釈して取り決めたことである。あることばがわからないから調べようとしたとする。しかし、定義の説明の中にまったく取っ掛かりがなければどうしようもない。たとえば、「白、黒、反対」の三つの語を知らない人が、ある辞書で「白」を調べたところ「黒の反対」と書いてあったら、もうお手上げだ。日本語を母語としていて、なおかつ白や黒を辞書で引く人は、すでに意味がわかっているはず。調べているのは、意味ではなく、定義のほうなのである。

これまた手元にある古い版の広辞苑で遊んでみた。「こころのこり【心残】」を引いてみたら、「あとに心の残ること。思いきれないこと。未練」などと書いてある。次に「みれん【未練】」に移動してみると、「心の残ること。思いきることができないこと」とある。自分の知識をまさぐって「ざんしん【残心】」という用語にも当たってみたら、「心のこり。みれん」と定義されていた。まるで堂々巡りのしりとりをしているみたいに見えないだろうか。

「思いきれないこと」が別の用語の定義では「思いきることができないこと」となったり、「残る」や「未練」と漢字で表記されたり、「のこり」や「みれん」とひらがなで表記されたり、当該用語の定義を担当する専門家ごとに書き方が変わってくる。こんな些細なことに文句をつけるべきではないだろう。むしろ、定義というものが主観の表現形であるということ、そしてそれがぶれのない絶対存在なのではなく、移ろう奇怪な存在であることを知っておくべきである。ことばの意味はほとんどの場合、体験によって身に沁みこんでいく。

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proconcept

岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

「定義という奇怪な存在」への2件のフィードバック

  1. ちなみに,文化庁(1990)『外国人のための 基本語用例辞典(第三版)』には,「しろ」「雪のようないろ。」という定義と「白地に赤丸をかいて,国旗を作った。」という例文が載っています。

  2. 「しろ【白】」が「雪のようないろ」という定義は見たことがあります。この定義は「雪ぐらいは知っているだろう」という前提に立っているわけですね。それはそうと、「白地に赤丸をかいて、国旗を作った」という例文は初めてです。これなら「白ご飯に梅干をのせたら、これが日の丸弁当」でもオーケーでしょう。英英辞典を使い始めた頃にAmerican Heritage Dictionaryで”white”の定義があまりにも科学的(というか光学的物理的)だったので驚いた経験があります。

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