アイデアの鉱脈はどこにある?

塾生の一人が『アイデアは尽きないのか?』というタイトルでブログを書いていて、しかも記事の最後に「結論。アイデアは尽きない」と締めくくっている(ブログの更新が滞り気味なので、もしかするとアイデアが尽きているのかもしれないが……)。とにかく、師匠筋としてはこれを読んで知らん顔しているわけにはいかない。もちろんイチャモンをつけるために沈黙を破るのではない。その逆で、この種のテーマが常日頃考えていることを整理するいいきっかけになってくれるのだ。なにしろ、ぼくのブログには〈アイディエーターの発想〉というカテゴリがある。当然これから書くこの記事はそこに収まる。

アイデアは尽きないのか? 「アイデアは尽きない」という意見に同意したいものの、正しく言えば、この問いへの答えは不可能なのだろう。アイデアは誰かが何かについて生み出すものである。そのかぎりにおいてアイデアが尽きるか尽きないかは、人とテーマ次第ゆえ結論は定まらない。当たり前だが、アイデアマンはどんどんアイデアを出す。しかし、その人ですら不案内のテーマを与えられたらすぐに降参するかもしれない。

たとえば「世界」についてアイデアを出す。これなら無尽蔵に出せそうな気がする。世界という要素以外にいかなる制約も制限もないからである。時間が許されるかぎりアイデアが出続ける予感がする。但し、ここで言うアイデアには単なる「観念」も多く含まれ、必ずしも「おもしろい」とか「価値ある」という条件を満たすものばかりではない。


世界というテーマはあまりにも大きすぎるので、身近な例を取り上げよう。たとえば「開く」。「開く」からひらめくアイデアは、「開閉する」についてのアイデアよりも出やすいだろう。「ドア」という具体的なテーマになると、「開閉する」にまつわるアイデアよりも少なくなってくるだろう。「ドアのデザイン」まで絞り込むと、アイデアはさらに少なくなることが予想される。「アイデアは尽きないか否か」という命題は質にはこだわっていないようだから、量だけに絞って論じるならば、テーマが具体的であればあるほど、また要素が複合化すればするほど、アイデアは出にくくなると言えそうだ。

10-□=3の□を求めなさい」というテーマで、□に入る答えをアイデアの一種と見なすなら、「7」が唯一のアイデアとなり、これ一つで「尽きてしまう」。極端な例でありアイデアという言い方にも語弊があるが、テーマが小さく具体的になり制約する要素が増えれば増えるほど、アイデアは尽き果てることを意味している。つまり、下流に行けば行くほど、求められるのは「11」のアイデアのように、量でも質でもなく、「正しさ」のみになってしまうのだ。最近の企画術や発想法はかぎりなくこの方向に流れている。つまり、おもしろくない。

テーマを提示する側が、自分が評価しうるレベルに命題表現を設定してしまう。アイデアを出そうと張り切っても、大胆なアイディエーションへの冒険をさせないのである。「何かいいアイデアはないか?」と聞くくせに、尋ねた本人がすでに「正解の方向性」を定めているのである。こういう状況では「アイデアは尽きる」。「アイデアが尽きない」という結論を証明するためには、テーマの上流に遡らねばならない。そこで、時間のみ制限枠にして、ただアイデアの量だけを目指して知恵を蕩尽とうじんしてみるのだ。いいアイデアは、このようにして出し尽くされたおびただしいアイデア群から生まれるものだろう。

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proconcept

岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

「アイデアの鉱脈はどこにある?」への4件のフィードバック

  1. 最近のビジネスシーンでは、良いアイデアを出すという作業は
    本当に少なくなっており、正解、もしくは決まり事を良く見せ
    るための飾りにしか、アイデアは使われていないように思います。
    スピードという価値観に押し流されてしまっているのか・・・
    その環境がよくないのでしょうが、そう言っててもはじまり
    ませんね。このブログに「そうだ!」と思った私は、何かを
    考える時に、与えられたテーマを一旦「上流」に押し上げて
    発想し、その上で元のテーマに戻り組み立てる、ということを、
    自分の中でやらないといけないのだと思います。
    凡人の私には難しいことですが。

  2. おっしゃる通り、スピードという価値観、さらに加えるならば、効率至上主義が、アイデアを低品質にしているのでしょう。話はアイデアに止まらず、仕事全般にも言えるわけで、企業も得意先も遠回りや迂回を許さなくなってしまったのです。下流に行けば手っ取り早く仕事にありつける―この風潮にはツケがついて回ります。いったん下流の味を覚えたら上流には遡りにくいでしょう。自分で自分の首を絞めないためには、誰が何と言おうと、上流から仕事を眺めておかねばなりません。

  3. 確かに、会議などで「結論ありき」の質問をしてしまう人がいます。
    そういった場合、岡野塾長の言う「正しさ」さえも失われます。
    単に「自己優越」の世界です。
    質問者「この件についてどう思われますか?(どうせ答えられないだろう)」
    回答者「…ええぇ~っと、その件に関しては…Aで、…Bで、…」
    質問者「答えになってないですよ」
    回答しようとしても潰してしまう人です。
    どうせ、人の意見を聞こうとしないなら、最初から質問しなければいいのに、しゃしゃり出る人です。
    私も経営研究会などで、セミナーの運営もする立場になってから、こういった質問には腹立たしさを覚えるようになりました。
    意思決定をするための会議では、こういったことも「あり」かと思います。
    ただし、アイディアを拡散させる会議だったり、不特定多数が集まるセミナーの場合、「結論ありき」の質問はいけませんね。

  4. 「アイデアを出し合う」のと「意思決定のための論議」が同じプロセスでおこなわれているのが実態ですね。前者は評価を遅らせるものであり、後者は評価を急ぐものです。根が違います。後者の仕切り段階では挑発的な質問や駆け引きがあってもやむなしでしょう。けれども、前者にあっては深慮遠謀することなく、いや、むしろ軽薄気味にアイデアの量を求めるべきだとぼくは思っています。ファシリテーションを仕切ることと勘違いしている人が多くて困ったものです。

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