縁あって知る、ちょっといいことば

先月の下旬にぶらぶらと歩いていたら、寺の壁に黒白の幕が張ってあった。興味本位で近づけば吉祥寺とある。黒白幕は1212日の義士祭に備えてのものだった。播州赤穂だけでなく、浅野家ゆかりということから大阪下町のこの寺にも墓があるわけだ。詳しくもなく調べもしていないが、内蔵助良雄の座右の銘が碑に刻まれていた。「全機透脱」がそれ。全機も透脱も『正法眼蔵』に出てくる熟語だが、合成した四字熟語は見当たらないから、内蔵助の造語かもしれない。大きな辞書にも載っていなかった。

『正法眼蔵第二十二』を少し読んでみたら、難解でよくわからない。前後の文脈にこだわらず、「全機現に生あり、死あり」という、一番わかりやすかった箇所だけ都合よく注目する。「すべてのものの働きに生と死がある」という意味だ。透脱のほうは、「諸仏の大道、その究尽するところ、透脱なり、現成なり。その透脱といふは、あるひは生も生を透脱し、死も死を透脱するなり」という文で冒頭に出てくる。透脱は「縛られることのない、完全な自由」のように思われる。

全機透脱。メッセージに重厚な意味が込められた、揮毫向きの四字熟語ではある。三十年以上も前の話だが、勝海舟の『氷川清話』の中で「虚心坦懐」に出合った。ずいぶん気に入って筆で書いたりもし、わけのわかった顔して話したりもした。ところが、例の劇場系首相が頻繁に使うようになってから、縁遠くなってしまった。はしゃぐ人には合わないことばだからだ。あの人には「人生色々」という四字熟語のほうが似合っていた。心にわだかまりがない様子を現わす虚心坦懐には、どこか全機透脱に通じるものを感じる。


『氷川清話』を読んだ頃の蔵書は手元に一部しか残っていない。十数年前に本が増えてしかたがないので、要らないものを処分しようとした。ところが、間違って不要でないものまで処分してしまった。再読したい本は買うが、価格がまったく違う。当時150円ほどで買った文庫本が800円くらいになっている。しかし、思想系の叢書などは古本をバラ買いすると安い。先週買ったスピノザの『エティカ』など100円だった(中央公論社の世界の名著シリーズで、ライプニッツの『モナドロジー』も入っていて、お買い得だ)。

『エティカ』は大部分定理という形で書かれていて、一見すると難解そうに見える。しかし、実際はやさしく読める。箴言集として読めばいい。次から次へと共感する名言が現れてくる。この種の本をよく読んでいた若い頃、目的もなく、将来使ってやろうという野望もなく、お気に入りのことばをせっせとノートに書き写していた。まったく記憶の片隅にもないつもりだったが、再び通読してみると覚えているものだ。何年経過してもよい、本はやっぱり二度読むべきなのだろう。ちょっといいことばをいくつか紹介しよう。

「喜びとは、人間が小さな完全性からより大きな完全性へ移行することである。」

「自由な人間は、けっしてごまかしによって活動せず、常に誠実に行動する。」

「人があれもこれもなし得ると考える限り、何もなし得る決心がつかない。」

文字通り読んでもいいし深く読んでもいい。最後の一文には大いに共感する。「何でもできる」という思いが、強い意志の表れではなく、単なる「意地」であったりすること。あれもこれもは結局どれにも手をつけないということ。実行可能性の高いことよりも、成功しそうもないことを人は掲げようとすること。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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