本と本棚と、時々読書

「無用の用」――つまり、「無用とされるものでも役立つこと」――を否定してしまうと、日々の暮らしやおこないの何もかもが無用に見えてきて空しくなる。だから、一見無用だけれど何がしかの役に立っていると自分を慰めて生きていく。仮に役に立つとまで言えなくても、無用の自浄作用に期待しておく。

本と付き合っていると、この無用感に苛まれながらも、いやいや、本こそ無用の用なのであると思い直す。読書行為において無用と用がせめぎ合う。しかし、無用を無駄だと決めつけていたらこれまで本など読まなかっただろう。少なくとも読書の時間は単純な無駄でなかったことは明らかである。

自宅の何千冊もの本をデジタル化して一台のPC内で所蔵するとしよう。あのことが書いてあったのはどの本だったかと本棚から本棚をさすらうことはなくなる。キーワードを入力して検索すれば、即座にいくつかの候補が見つかる。本を探す時間とエネルギーは省かれる。そして、何よりもありがたいのは、本に支配されている空間が解放されることだ。


だが、よくよく考えてみたら、そのキーワードが頻出語であったりすると、何十冊、何百箇所もの候補がヒットするだろう。おびただしい候補のリストから見当をつける労力は並大抵ではない。もし候補を減らしたければ、キーワードをかなり絞り込む必要がある。キーワードの絞り込みとは詳細に修飾語をトッピングすることだ。それができるためには、検索時点で明確に対象が意識されていなければならない。いずれにせよ、キーワードで抽出された書名や本の一節を見つけ出すのも一苦労なのだ。既読の本であれば、記憶を辿りながら実物の本を探すのと手間暇は変わらないような気がする。

私の本棚

最近『私の本棚』という本を読んだ。二十数名の文筆家らが本と本棚と読書について書いたエッセイ集。本のジャンルに読み手の個性が出るように、本棚そのものも読者のアイデンティティを反映する。おもしろいことに、読書家たちは、本を選び買う以上に、また読書すること以上に、蔵書のやりくりや本棚をどうするかという苦労を背負う。蔵書家でもある読書人にとっては、本棚の問題が解決しないかぎり、読書どころではないのである。

本棚に割り当てる空間は壁さえあればよく、奥行20センチか30センチだけの話である。しかし、本を取り出して読むことを前提にしているのだから、背表紙が見えなくてはならない。背表紙が見え、出し入れするにはさらに数十センチの余裕が必要になる。こうして、たとえばぼくの書斎の場合、三つの壁面に本棚が聳え、居場所を圧迫している。

何とかしなければならないという危急の思いと、デジタルデータではなく現物の本でなければならないというこだわりが葛藤し、結局は実物の本棚に本が埋まり、収まり切れない本が行き場を失っている。それでもなお、本棚の前で右往左往しながら、どの本のどこに何が書いてあったかと、バカにならない時間を費やして渉猟する日々。一発検索の魅力に劣らない望外の発見に恵まれるからである。読書さえできればそれでいい、というわけにはいかないのはもはやさがだろう。本があって、本棚があってこそ、時々読書が可能になるのである。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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