『セレンディップの三人の王子たち』という物語がある。セレンディップは今のスリランカ。かいつまめば、次のようなあらすじである。
セレンディップ王国は偉大な王が支配していたが、凶暴なドラゴンに悩まされていた。そこで、王は自慢の三人の王子にドラゴンを退治する巻物を探して持ち帰るように命じた。机上の学習だけでなく、武者修業に出して実践的な判断力を身につけさせようという意図であった。長い旅を通じて王子たちは旅先で会う人々の話に耳を傾け、小さな事柄にも気をつけ、困っている人々を救った。結局、巻物は手に入らなかったが、王子たちは偶然を味方につけ、賢明さ、慈悲深さ、勇敢さによる問題解決力、知識を上回る実践的応用力を修得したのである。
重要なのは傍線部。ここに、未知の力を発揮するヒントがある。さて、この物語から「偶然」について一つの考察が始まった。そして、王国の名前セレンディップから〈セレンディピティ〉ということばも生まれた。セレンディピティとは偶然に察知するという概念で、「偶察力」と訳されることが多い。しかし、この一言で片付くと思えないのは、目指して身に付くようなものではないからである。偶然と環境と変化と異種と無自覚……様々な要因が重なる必要がある。
物語が示唆していると思われるセレンディピティとはこうだ。
もともと目指したものは獲得できなかったが、それとは別の、それ以上の成果に恵まれる……本人はそのことに気付いておらず、暗黙知のようなもので動かされている……常識や規範の桎梏から逃れているため、偶然を生かし感性による気づきが芽生えやすい……前例がないし自らも経験がないから難しいという感情を起こさない……。
同じ環境に身を置いて同じことを繰り返す日々にセレンディピティは生まれにくい。もっと言えば、何をするにしても目的が必要な人、満たさねばならない条件が多い人、規定やルールの縛りを受けるほうが物事に取り組みやすい人……こういう人たちは、持ち合わせているスキルのみを用い、環境の枠組みの中で現実のみを見るから、サプライズが生じる余地がないのである。セレンディピティはサプライズ、つまり、想定外の贈物にほかならない。
他の分析可能なスキルと違って、偶察力を高めるための理詰めの学びがあるわけではない。むしろ、日常の習慣や環境をセレンディピティが生きてくるように見直すのが先決だ。『偶然からモノを見つけだす能力――「セレンディピティ」の活かし方』(澤泉重一著)には、セレンディピティ活用の基本ステップの例が挙げられている。
感動→観察→記録→ネーミング→課題の認識→連想→ファイリング→情報交換→行動範囲の拡大→仮説→検証→発見→創造
あくまでも便宜上のステップであって、こんなふうにセレンディピティが規則正しく生かされるわけではない。むしろ、これら13の要素がセレンディピティ醸成のための環境要因になると考えればいい。最後に、ぼくなりに補足しておく。
感動の前提に好奇心があり、愉快がる性格がある。
観察とは「お節介」だ。対象へ強引に個性が介入することである。
記録は書くこと。書くことが新しい発想や思考を誘発する。
ネーミング、すなわち概念や物事を一言で命名する作業は、要素や本質を見つけることにつながる。
課題の認識は明文化を通じておこなわれる。わかったつもりでは認識に到らない。
連想とは知と知を結ぶこと。こじつけてもいいから点情報どうしをつなぐ。既知と既知のつながりから未知が明らかになる。
ファイリングの基本は分類。分類作業はカテゴリーを生み、大なる概念を小さな概念にブレークダウンする。
情報交換の主眼は異種情報の交換(ひいては統合)である。
行動範囲の拡大は、知的探検と読み替えればいい。一か所にとどまるよりも動いたり旅したりするほうがいい。ウンベルト・エーコは言う、「異なる文化のところにセレンディピティが育ちやすい」と。
仮説と検証はワンセットだ。仮説は演繹的であり、検証は帰納的である。一般概念と具体的概念のいずれにも偏らず、行き来することが重要だ。
発見と創造もワンセット。知識や試行錯誤経験などが累積した結果、あぶり出されてくる新しさへの気づきであり、他人と違う意識や想像に裏打ちされるものである。