しっくりこない時

ずっと以前から「適材」という表現に違和感を抱いている。辞書的には「ある仕事に適した才能を持つ人」で、この字義に特に不満はない。しかし、仕事や場所のことに触れずに、ぽつんと適材とは言えないのではないか。「~に適した人材」という意味だから、「~」が特定されてはじめて適材が明らかになるはずだ。だから、人材と任務・地位を組み合わせたセット表現、「適材適所」が慣用句として使われる。それでもなお、魚の小骨が喉に引っ掛かっているような気分がぬぐえない。

場所が先にあり、その場所で適切に何事かを成すための基準があって、その基準を満たすから、「場所に適した材」が決まってくるのだろう。これは人材と仕事に限った話ではない。素材とテーマのマッチングにも同じことが言える。テーマがあって素材が決まるのである。たとえば、あるカフェの雰囲気づくりというテーマに合ったインテリア、絵、音楽をどうするかと、ふつうは考える。一般的に、カフェに演歌、居酒屋にクラシック音楽だと適材適所とは言えない。

以前ランチによく通った、誰が見ても明らかなイタリア料理店があった。この店のオーナーはルパン三世の熱烈な愛好者で、蒐集したフィギュアを店に飾っていた。つまり、彼が好きな「適材」がまず存在した。それが場にふさわしいかどうかにはまったく意を注いでいなかった。「イタリアンぽくないね」というぼくの指摘に、彼は「好きなんですよ」と返答してけろりとしていた。BGMがいつもボサノバなので、「カンツォーネのほうがよくない?」と言えば、「うちは地中海料理なんで」とおざなりな回答。手打ちパスタとニョッキが自慢ならイタリアンではないか。よろしい、地中海料理だと認めよう。それでも、ボサノバを流す理由にはならない。つまり、彼はルパン三世とボサノバが好きで、それらの素材が客が感じる場の雰囲気に合うかどうかにまったく配慮していなかったのである。


 挿入曲

先日、「世界遺産への旅」というような題名のテレビ番組を観ていた。挿入曲――映像の背景に流れる音楽――は、聞き覚えがあるどころか、とてもなじみ深く、すでにぼくなりのイメージが強く刷り込まれている曲だった。それがまったくふさわしくなかったのである。音楽担当者は、シーンとは関係なく、番組でこの曲を使ってやろうと決めていたに違いない。

それはチベットの修行僧が登場するシーンだった。そこに映画『ひまわり』の主題曲が流れたのだ。このような、特定の物語のために作曲された曲は背負っているものが固有である。別の物語の別のシーンに流用するのは難しい。案の定、主題曲が『ひまわり』のシーンを浮かび上がらせてしまった。ソフィア・ローレンとマルチェロ・マストロヤンニがチベット僧を消し去ったのである。無難に軽めのクラシック音楽かイージーリスニング系の音楽にしておくほうが、たぶん適材だった。

音楽の効果には技術以上のセンスとジャンルを超えた知識が求められる。番組や映画の映像がよくても、また、物語性が豊かでも、音楽が適材適所失格なら作品が台無しになることさえある。同様のことは、ナレーションの文章表現とナレーターの口調にも言える。カジュアルな番組なのに、肩肘張った口調で自分ひとりで昂揚し、視聴者を置き去りにしていることがある。

挿入曲もナレーションも番組の主題や映像シーンに溶け込んでいなければ居心地が悪く、しっくりこない。もっとも楽曲や語り口には人それぞれの好みがあるから、TPOに応じた「最適な音楽」があるはずもない。また、最適を求めるほどのわがままを言うつもりもない。しかし、主題に見合った適材を探せないのなら、下手に自分の好みや個性を主張せずに、ホテルのロビーで流されるような差し障りのない環境音楽にしておけばいいのである。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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