注の注の注

本質的にはいいことが書かれているのだが、注釈や弁疏べんそが多くて面倒になる本がある。この傾向は入門書においておおむね色濃くなる。話しことばになると、本題から逸れるノイズはさらに増える。字義や由来や行間説明をしているうちに注が注を呼び、それがまた別の注を招くのだ。そんな「メタ注」に出くわすたびに「これが言語の限界というものか」と呟く。後日、原典を読んでみると、入門書よりももっとわかりやすかったことを知る。

冗長度が増すのは親切心かもしれないと同情する余地はある。しかし、厳しい言い方になるが、ある事柄を単刀直入に説明せずに迂回してしまうのは、その事柄を十分にわかっていないからなのだろう。あるいは、聞き手や読者とは無関係に、「字義の積み木や工作」を話者や筆者が楽しんでしまうからなのだろう。ぼくにもそんな性向がある。凝り始めると、プロローグにプロローグを被せたり、そのプロローグのための序章を書いたりしてしまう。プロローグならまだましで、これがエピローグになってしまうと、話が終わらない。

何事かを完璧に知ろうとすれば、必然その何事かを説明する定義の完璧をも期そうとする。こうなると、字義が字義を呼び起こし、延々と注釈の注釈が続く。はたしてこれが言語が抱える決め手不足なのか。たしかにそうかもしれない。しかし、畢竟言語を操るのは人間なのだから、言語の限界は人が直面する限界でもある。仮に言語が完璧でありうるとしても、人のほうがオールマイティではない。ことばのみならず、感覚にも思考にも観察にも限界点がある。注の注の注というリダンダンシーは言語の限界を証明しつつも、その限界を打ち破ろうとするせめてもの努力なのかもしれない。


定義や注釈は固定化した説明である。少しずつ劣化する以外に大きな変化の可能性がない標本のようなものだ。もともと定義や注釈は誰かのためにおこなわれる「サービス」なのだが、その性格はきわめて静態的である。ところが、情報は流動する。情報が匂わせる意味は刻々と変化するのだから、定義には向かない。情報には可動性が必要なのだ。「誰かに何かを伝える機能」を担うのが情報。それは、定義ではなく、表現すべきものなのである。表現には度胸がいる。度胸がないから注釈がどんどん膨らんでしまうのだ。

緊急でないテーマの注の注の注を否定しているわけではない。文化的遊びとしてあってもいいだろう。しかし、そんな遊びとは無縁の状況にあっても、注釈癖が顔を出す。くどくなるのは、誰かに伝えようと表現する前に自分自身に説明しようとするからである。極論になるのを避けるために、ああだこうだの注釈がモラトリアム的に発生するのである。一言一句の揚げ足取りという悪しき慣習のせいで、揚げ足を取られる恐怖から定義を固めようとするのか。あるいは単なる衒学趣味なのか。

ともあれ、定義や注釈がおびただしくなるのは、矮小なリスクマネジメントの表れである。それらが何重にも外堀を形成していて、いつまでたってもテーマの本陣に近づくことができない。定義や注釈の完成度がいくら高かろうと、絶対的な表現不足であるかぎり何を言いたいのかはさっぱりわからないのである。情報はなまくらな結束でもいいし脱編集的であってもいいから、もう少し表現の方向へとメッセージを誘導する冒険が欲しい。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

「注の注の注」への2件のフィードバック

  1.  話の本筋を言い切ることをせずに、前段となる条件や状況をあれこれ「注釈」したがる自分の物言いは、論拠も自信も薄弱であることをカモフラージュする姑息な手段と化しています。説得こそが共感を得る最大の方策であると、2009年の岡野塾で学んだことを今こそ実行せねば…。
     話題は若干それるのですが(と、ここでもモラトリアムの注釈癖が)最近の食品パッケージのご丁寧「注釈」にはあきれるばかりです。「印字の賞味期限は未開封の場合です」→空気に触れて劣化が進むのをご存知ない方はどなた?、「調理の際、熱湯にはご注意下さい」→熱湯使用時、やけどに注意しない人がいますか?、「開封した後の切り口でけがをしないようご注意ください」→けがをした人は自己責任。
     そのうちパッケージ表面積の3/10以上のスペース取りが義務づけられ、「インスタント食品の摂取は、あなたにとって栄養障害の原因の一つとなります。疫学的な推計によると、…」との警告文が表示されるのも遠い先のことではないと思います。

  2.  「注釈」と「注意書き」は若干意味が違うとは思います。後者はメーカー側のリスク対策ですから。いずれにしても、注の類が増えるのは「言訳文化」の象徴ですね。注を付ける側も読む側も、もはや行間や文脈に気を回すこともない。
     書かれた注意書きは、場合によっては無視できる。問題は、逃れることのできない音声の暴力。猛威を振るう車内放送がその最たるもので、安眠妨害、読書妨害がはなはだしく、しかも避けることができません。

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