「食域」というアイデンティティ

仕事にもスポーツにもそれぞれに「それらしい本分」が備わっていてほしいと願う。同様に、民族や風土が育んできた食性がやみくもに損なわれるのを目撃するのは忍びない。自然の摂理でそうなるのならまだしも、珍しいレシピや度を過ぎた折衷を求めるあまり、己の食性を乱すことはないだろう。

食性ということばは生存のための本能的行動に密着しているようだ。そこで、生命とは無縁の欲望のほうに少し近づいて「食域」という造語を用いることにしたい。ざくっと食やレシピのレパートリーと想像してもらえればいい。言うまでもなく、食は饗する側と饗される側の協働によって成り立っている。料理するだけで食の儀は終わらず、料理なくして饗宴が始まることはない。長い食文化の歴史を通じて、人類は実にさまざまな食材を組み合わせて料理を完成させ口にしてきた。いつの時代も食域は前時代よりも広がる。この国の食域の広さは間違いなく世界一を誇っている。

「この料理なら許せるが、あれはダメ」というのが人それぞれの食域になる。各地で鰻を食べてきた鰻の薀蓄家である知人でさえ、うな重に振りかけるのは山椒のはずで、決して黒胡椒をかけることはありえない。タレがデミグラスソースのうな丼を食したこともないはずだ。つまり、世間の共通認識として、黒胡椒やデミグラスソースを使ったら、それはもはやうな重やうな丼ではないという「食域のアイデンティティ」があるということである。


その知人にはもう一つの顔があって、ソフトクリーム大好きおじさんなのである。どこに行っても、抜け目なくソフトクリームを見つけては楽しむらしい。彼のブログではこれまでに醍醐桜、伊予柑、山ぶどう、バラ、メロン、白桃、ほうじ茶、柿、マスカット、いちじくなどのソフトクリームが紹介されてきた。驚くばかりである。ぼくなどは本場イタリアで食べるジェラートもバニラか特濃ミルクのいずれかだ。どんなにメニューが揃っていても、ぼくの食域にはバニラかミルク以外のものは入ってこない。こう言い切るのは、好奇心旺盛にしていろんな種類を食べてきたからこそである。その結果、ソフトクリームにおけるいかなる新種もバニラやミルクを越えないことを知った。

知人の最近のブログには次のように書かれている。「メニューを見ると『昔ながらのソフトクリーム』とある。ソフトクリーム好きの私としては即追加注文。しっかりした柔かさで、味も濃厚。去年はいろいろ変わりソフトを食べてきたが、やっぱりソフトクリームの原点はこの味」。ほら、やっぱり。ソフトクリームもジェラートも原点はバニラ味かミルク味なのだ。

フィレステーキや伊勢海老を丸ごと一匹乗せたお好み焼きはお好み焼きではない。別々に食べるほうが旨いのに決まっているからであり、どんなにひいき目に見ても折衷効果に乏しい。フォアグラやトリュフの寿司も、寿司のアイデンティティに反して食域を欲張ってしまっている。ぼくの中ではタラコスパゲッティはぎりぎりオーケーだ。見た目はともかく、味としてはアンチョビに似通っているからである。但し、箸でスパゲティを食べるのは食域侵犯であり、パスタのアイデンティティが崩れてしまっている。

かつてフレンチもイタリアンも箸でいいではないかと思った時期もある。ところが、小鍋にキノコといっしょに煮込んだ牛のほほ肉をパリで食べ、濃厚なミートソースでからめた手打ちの平麺をボローニャで食べたとき、フォークやスプーンなどの西洋食器が旬の料理と不可分の関係にあることを思い知った。以来、箸を置いてある物分かりのいいフレンチやイタリアンの店を敬遠する。そのような店の料理は洋風仕立ての和風創作料理――または和風仕立ての洋風創作料理――と呼ぶべきである。いや、たいてい創作料理ではなく「盗作料理」になっている。レシピの多様化や新作への挑戦は大いに結構だが、堂々としたアイデンティティの強い原点料理を忘れないでほしいものだ。 

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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