もたれ合うアイデンティティ

あるもののアイデンティティをそのことだけに関して、その内においてのみ語ることはできない。たとえば、さくらんぼのアイデンティティをさくらんぼそのものだけに限定して説明することは不可能だ。さくらんぼという果実は、その他諸々の果物との対比によってどんなものかが明らかになる。そして、果実群にあって差異化され自己同一的フルーツとなる。

「右」とは何か? もし「左」という概念を用いずに定義しようとすれば、「明という漢字の月が書かれている側」とでもするしかない。実際、『新明解』にはそう書いてある。しかし、これで右が自己同一性を保障されたわけではない。なぜなら、「では、日の書かれたほうは何?」と知りたくなり、それを知らないままでは右がわかった気にならないからである。結局、「日と書かれている側は左である」と補足せざるえない。

右をはっきりさせる上で左は欠かせない。右と左という二項は対峙して、相互依拠しながら意味のありかを照射している。白は黒に、男は女に、父は母に、夢は現実に――それぞれその逆でも――もたれ掛かっている。

知のネットワーク

二項間の差異が明確になってこそ、一項がアイデンティティを持つ。ものや概念やことばは、それ一つだけでは意味を明示できないのである。このことは二項だけに限った話ではない。「池」は他の類似概念との差異によって独自の位置を得ている。たまたま池を中心に据えた〈差異のネットワーク〉を示したが、もしここに田や沼を置けば、川や海を消して「潟」や「砂洲」を加えることになるかもしれない。


日本や日本人について語る場合も同じである。これまで読んだ日本論、日本人論のすべてが、日本と日本人の特性を他国と外国人と対比して描き出していた。日本以外の国、日本人以外の人々との比較をせずに日本と日本人のアイデンティティを語るのはほとんど不可能なのだ。絶対不可能と書かずに「ほとんど不可能」と書いたのは、日本と日本人を地域的または歴史的に細分化して語ることができるからだ。現代と江戸、現代人と万葉人を相互参照するように。

マックス・ウェーバーの「シーザーを理解するために、シーザーである必要はない」という言にいたく感心したことがあった。よくよく考えてみれば、これはもっともな説で、シーザーが自分自身を他の誰とも対比せずに理解できるはずもない。「シーザーを理解するために、シーザーであってはならない」というほうが的を射ている。

ぼくの嗜好品であるコーヒーは、他の飲物がまったく存在しない時、たぶん意味もないだろうし、アイデンティティに出番もないだろう。水やジュースや紅茶があってこそのコーヒーある。概念は他の概念とネットワークを形成し、その中で意味を持つ。概念を表わすことばもしかり。差異と類似、そして連想やつながりによって機能している。もの、概念、ことばの意味とアイデンティティは、互いにもたれ合っている。だから、何かがある程度理解できたと思えるのは、その何かだけを突き詰めるたからではなく、別の何かとの対比をおこなったからなのである。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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