日常、新なり

故事成語に「日々にあらたなり」というのがある。しかし、「日常、新なり」などはない。今しがたふと思いついて、書いてみただけだ。

使い古されたはずの〈日常〉ということばが気に入っている。日常、それは必ずしも私事だけで染められたものではない。つまり、必ずしも公務や仕事と無縁の日々のことではない。日常とは、来る日も来る日も繰り返される、人生における大半の日々のことである。日常にはおおむね決まりきったルーティーンがある。よほどのことがないかぎり、枠組みは変わらない。

同じような日常を生き続けられるのは、ささやかながらも、何事かが新たになり何事かを新たにできるからだ。日常を生きるのに、政治家のように「未来」を十八回、「世界一」を八回も口にすることはない。日常には未来はなく、今があるばかり。世界一もなく、暮らす街中の狭い視野の中で今日の最善を求めるばかり。日常では未だ見ぬものは存在しないし、何が一番で何がビリかという順位の概念が威張ることもない。

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さほど変化しない日常だが、それを取り巻く環境のほうは、対照的に激しく新陳代謝を繰り返す。事物もことばも陳腐化する。百貨店、大衆食堂などは装置としても名辞としても劣化して久しい。廃れたものはにわかに別の何かによって取って代わられる。しかし、使い込まれて陳腐化してもいいはずなのに、感覚をリフレッシュしてくれる概念がある。街や風景や暮らしがそうだ。街や風景や暮らしは趣を変えるにもかかわらず、これらを象徴することばは色褪せることはなく、日々新たに響いてくる。


知の糧をどこから手に入れるかと若者に問えば、インターネットと答える人たちが多い。その数は新聞・雑誌・テレビを情報源としている人たちを上回る。他に? と聞くと、ある人たちは「本」だと言い、別の人たちは「人」だと言う。人というのは、雑談や対話にほかならない。いずれにせよ、彼らは現実にどのように対峙しているのか。現実のどこをどんな方法で見ているのか。

現実の観察に出番が少ない。たとえば街歩きはどうなっているのか。ぼくの経験上、体験を踏まえない知識は中途半端であり、リアルと言うよりは架空に近い。「あの街は観光客で賑わうハイセンスな街だ」という情報は、自らの体験を通じてはじめて実感となるわけで、そういうことが書かれた文章を読んだだけでは実践の知にはなりえない。街、風景、暮らしの、「日常、新なるさま」は、歩いて佇んでわかるものだ。歩いて佇まなければ語る資格がない、と言っているのではない。歩いて佇まなければ想像に頼るしかないという意味だ。

誰もがどこかの街で暮らしている。暮らすという体験の中で街の情報を汲み取っている。体験は個人的であり主観的である。だから、そんな体験的情報は例外かも知れず、本や対話やその他諸々の媒体から得る「客観的情報」に比べて見劣りする……こんな意見があるが、気にすることはない。街で暮らし風景を眺めることに客観性を持ち込むのは野暮だ。世間が感じるように感じなくてもいいのが日常の特権なのである。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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