立地の良し悪し

マンションのオーナーが最上階に住んでいる。先日ちょっとした会話を交わした。「最近スーパーが増えて便利になりましたね」と言えば、「いやいや、どのスーパーに行くにも歩いて67。中途半端な立地です」と意外な返事。「立地」はよく使うことばである。立地が良いとか悪いとか、好立地とか、立地条件が揃っているとか……。「中途半端な立地です」と言ったオーナーは、立地にどんな意味を込めたのか。単に場所という意味だったのか。

ぼくの住まいの周辺を知る人は異口同音に「立地の良い所ですねぇ」と言う。なにしろ、地下鉄が3路線あり、いずれの最寄り駅へも徒歩5分圏内だ。ミナミの繁華街で飲み終電がなくなっても、タクシーを拾わずに15分程で帰宅できる。オーナーとやりとりしたように、新しいスーパーが2店舗でき、ぶらり歩いて10分以内に合計4店舗。さらに商店街があり、そこには小規模ながらスーパーが3店舗ある。オフィスまで徒歩10分という、ほどよい職住近接条件を加えると、ぼくにとっては抜群の立地なのである。

前後の文脈から切り離した「立地」は、単に場所や位置のことにすぎない。富士山の立地は自然の産物であり、あの位置にあることに良いも悪いもない。場所や位置が良いとか悪いと言えるのは、生活・文化や仕事・学業や事業の営みを考慮するからだ。そして、これらの営みのために人は移動しなければならず、そこで交通の便や移動時間が考慮される。生活者は必要な行為のために理想の立地条件を思い描き、理想に近ければ立地が良いと喜び、理想から遠ければ立地が悪いと嘆く。つまり、みんなにとっての好立地などというものはない。


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この図のように、自宅からABCまで67分なら便利な立地と言える。「中途半端な立地」というのは不便という意味ではなく、どこへ行くにも同じ時間がかかる、ということのようだ。オーナーは高齢者である。高齢者にとって頻繁に利用する施設の遠近は重要だ。オーナーが中途半端な立地から脱出したいのなら、一番お気に入りのスーパー、たとえばAのそばに引っ越すのがいい。その一ヵ所だけが12分という近さであれば、それが好立地ということになる。その代わり、BCは遠くなる。それでもオーナーはオーケーなのだ。買物する場所の選択肢の多さに関心がないのだから。もしBが銀行でCが役所なら、スーパーAの近くの住まいは必ずしも便利とは言えない。ぼくはこの図の立地に十分満足している。スーパーも駅も異なった三方向にあるのがいい。

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上図のような、Aのスーパー、Bの役所、Cの銀行が同じ方面で近接している立地もある。まとめて用事が片付くから、車で15分かかっても十分便利だと考える人がいる。しかし、オーナーのように67分でも遠いと感じる人にはメリットがない。そこで、オーナーがBの役所裏に引っ越すとする。銀行もスーパーも近い。しかし、今度はコミュニティセンターや駅や飲食街からは遠くなってしまうかもしれない。

話は簡単だ。どこかに近づけば、別のどこかから遠ざかるようになっているのである。何もかもが生活圏にあるような好立地を望むなら、街全体を超コンパクトシティにするしかない。たとえば2キロメートル四方に何から何まで間に合うような生活舞台を作ってしまえばいい。それでもなお、街の北東角の図書館に行くのに、南西角に住む子どもは2.8キロメートル歩かねばならない。そして、これを便利と思うか不便と思うかは、個々の生活軸である時間・距離感覚次第。車を所有しないぼくにとっては、車がなくても自前の体力だけで活動できる場所が好立地なのである。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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