パラグラフ感覚

親しい知人が助言してくれた。「岡野さんのブログを読んでいます。内容はむずかしいですが、とても啓発されます。ただ、もっと改行して行間をたくさん空けられたほうが読みやすくなっていいと思うのですが……」

余計なお世話だと言い放つほど自分のスタイルを過信していないので、ありがたく拝聴した。もちろん愛読にも感謝した。ただ行間を空けたり頻繁に改行したりするほうがいい文章とそうでない文章があり、あるいはそうしたほうがいいテーマとそうでないテーマとがある。ぼくは当該段落で言いたいことを言い終えるまでは改行しないようにしている。ちょっと長くなったなあ、そろそろ改行して新しい段落にするか、などとは考えないのである。やれやれ、こんなふうに記事体裁に関する助言があったこと、そしてその助言について考えたことをあれこれと書いているうちに、この段落はすでに10行の長さに達しようとしている。この段落だけで、四百字詰め原稿用紙一枚に相当しているだろう。

行間を空けるとは段落パラグラフを増やすということだ。しかも、段落のブロックが重くならぬよう文章を少なめにするということでもある。このような助言をありがたく拝聴しておいたと言いながら、まるで逆らうように書いているのを反省する。しかし、反省することと変革することは別物だ。長年親しんできた自分のパラグラフ感覚をある日突然変えることはできそうもない。いや、このようなテーマについて書かなければ、ぼくだってどんどん改行し、一段落23行のブロックで見た目にやさしくすることもできる。実際、話題を雑記風に書くぼくのノートはそんなふうになっている。そのように書けば、たしかに読みやすそうには見える。しかし、文章が間断することがしばしばで、流れは悪い。要するに、目に訴える見た目の「快読感」と脳に訴える内容の「可読性」は違うのである。


そもそも段落は文章全体のテーマに従って構成されるものである。テーマが段落に小分けされて落とし込まれ、さらに個々の段落で長短さまざまな文章に分解される。理屈はそうだが、この説明はあまり現実的ではない。実際は、個々の文章を書いていくうちに、ひとかたまりの段落ができ、それがテーマの一断面についてのメッセージとなり、最終的にはすべての段落を通じてテーマの軸が一本通ってくるのである。

日本語の文章しか書かなかった20代半ばまではアバウトなパラグラフ感覚しか持ち合わせていなかった。前後して英語教育に携わり、その後海外広報の仕事に就くようになってから、英文を書く機会が一気に増えた。A4判シート30ページくらいの英文を一日で書いたこともある。その折に、ぼくは英語のスタイルブック(通称”シカゴマニュアル”なるもの)を中心に文章作法を徹底的に独学した。以来、日本語を書くときにもその習性を引きずっている。先にも書いたが、気まぐれに改行するのではなく、段落内の論理的帰結や内容の可読性を、見た目の体裁よりも優先させようとする習性である。うまくいっているかどうかは読者の判断に任せるしかないが……。

英文を書いていた時代の同僚にカリフォルニア州出身のアメリカ人がいた。その彼とパラグラフ感覚について話をしたことがある。「テーマに沿って書く。何行か書いて、気が向けば改行する。一行だけ書いて次の文章が浮かばなければ新しい段落を起こす。ただそれだけ。深呼吸したいときにも改行するね」と、彼は言ってのけた。彼には文才があった。正確に言うと、一行単位で読むと輝きを放つ瞬発力のある文才。だが、論理を追いかけるスタミナには決定的に欠けていた。この彼の、言わばスプリンター的文章作法を反面教師とした。これも、ご覧のような段落構成になっている理由の一つである。

正しいとか間違いとかの話ではない。書き手のスタイルである。スタイルだから、全文章を改行する「一文一段落」で書くハウツーライターもいれば、ぼくの段落のひとかたまりが可愛く見えてくるほど長い段落を諄々と書き綴る著者もいる。最近目を通した本では『啓蒙の弁証法』(ホルクハイマー、アドルノ著)のパラグラフが窒息しそうなほど長かった。段落が23ページにわたるのは当たり前、随所に56ページに及ぶ箇所もあるからたまげる。何よりも論理思考のスタミナに驚嘆してしまう。  

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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