好き嫌いのスタンス

日常生活の大小様々な意思決定の主役が理性的判断などと言うつもりはない。もちろん服飾品にしても文房具にしても、どんなものを用いるかにあたって各人それぞれが理に適ったものを使っているはず。しかし、理性そのものが支配的であるわけがない。日々の意思決定には、好き嫌いという、本人にはきわめてわかりやすい感覚のスイッチが働く。オンかオフの行方が決まってから理性による自己説得という手順になるものだ。

とは言え、好き嫌いは不安定である。「何色が好き?」と聞かれて「白」と胸を張って答える人がいないわけではないが、何から何まで白で装うのは非現実的だ。わが国のしきたりに従えば、葬式に白ずくめはまずい。黄色のシャツが好きだからといって、男性で黄色の靴も好きという人を知らない。茶色が嫌いでも、コーヒーが好きなら茶色の液体を口に入れる。

敢えて一色ということになれば、ぼくは青色を好むが、身に着けるときはさほどではない。と言うよりも、芸能人でもあるまいし、青に執着していては日々の衣装や仕事着に困る。青を好む性向はおおむね青を基調とした風景や絵画に対してであって、カーテンや調度品が青いのは願い下げだ。但し、水性ボールペンや万年筆のインクはすべて青色である。まあ、こんなふうに何から何まで好き嫌いを貫き通せるものではない。


広告の仕事をしていた頃、あるスポンサーの部長が「ここのところは赤がいいねぇ。ぼくは赤が好きだから」と洩らした。好き嫌いの尺度である。広告のデザイン要素と絵画は少し違う。好きな絵は好き、嫌いな絵は嫌いでいいが、広告という、複数スタッフが関わって制作される企業の媒体は市場に働きかけて何らかの効果を出さねばならない。この色がいい、このコピーがいいなどと私的嗜好性だけで制作を進めるわけにはいかないのだ。全員一致の科学的根拠を踏まえよなどと言っているのではない。企業として説得や効果に関して何がしかの指標や基準があってはじめて、妥当と思われる色使いなり文章なりが決まるのである。そんな面倒なことが嫌ならば、有名デザイナーやコピーライターに丸投げすればよろしい。

禅宗に「五観ごかん」という教えがあり、その三つ目に「しんを防ぎ 過貪等とがとんとうを離るる」がある。心を正しく保ち、過った行ないを避けるために貪りの心を持たないという意味である。要するに、くだらぬ好き嫌いに拘泥するなということだ。五観の偈は「食事五観文」とも呼ばれ、特に食事に関する戒めを説く。ここで道徳的な説教を垂れるつもりはない。あれが好きだ、これは嫌いなどと食材に文句を言っているようでは、世の中生きていくうえでさぞかし数々の障害物にぶつかるだろうと思われる。なぜなら、嫌いなことが好きなことを圧倒しているからだ。

幸いにして、たしなみの頻度を別にすれば、ぼくの食の嗜好は偏っていない。出されたものはつべこべ言わずに何でも食べる。同様に、対人関係にも好き嫌いを持ち込まない。ぼくにとっては人物の好き嫌いなどよりも意見の相違のほうが関心事なのである。たとえば議論の際、好き嫌いだけで主張をされては困るが、理性の前段階に感覚というものがあって、そこに好意と嫌悪の情が介在することをぼくも認める。しかし、なぜ好きかなぜ嫌いかを説明するのは容易ではない。説明不可能なことを議論の対象にしても空しいばかりである。 

今日は会読会の日である。みんなそれぞれの気に入った書物を一冊選び読んでくる。ここまでは好き嫌いの判断でいい。しかし、その書評を仲間に公開する段になれば、理性的処理によって解説ないし啓発しなければならない。好き嫌いの次元で講評するような話に熱心に耳を傾ける気はない。好き嫌いにはコメントできぬ。これはぼくの嫌悪感の表明ではない。せっかくの書評にぼくは大いに関わりたいのである。 

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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