喜怒哀楽の大安売り

「この頃、自分でも驚くほど涙腺が甘くなって……」というため息混じりのつぶやき。「親の死に目に立ち会えなかった時も涙しなかったのに、後になって思えばあんなくだらん映画についもらい泣きをしてしまった」。こう言う中年男が、「あの映画で泣いたことを思い出すたびに、泣きたくなるくらい悔しい」とほとんど涙ぐんでいる。「男は少々のことでは泣くな!」と幼少期から躾けられたらしいが、理性に感情をコントロールする力があるかどうかは疑わしい。ラ・ロシュフコーは『箴言集』の中で「知は情にいつもしてやられる」と言っている。

誰だって哀愁漂う旋律に胸がジーンとすることがあるだろう。少々メランコリーな気分の時に切ないメロディーが重なれば、涙腺の奥が湿りもするだろう。音楽だけではない。淡々とした文章がふと人をしんみりさせたりもする。「棟方はゴッホになれなかった。しかし、世界のムナカタになった」という一文に何とも言えぬ感動を覚えたことがある。必ずしも悲しいからではなく、何かの拍子に感極まり目頭を熱くしてしまう。ツボにはまって笑いが止まらないように、涙のツボもありそうだ。

ぼくはクールな人間だとよく指摘される。ろくにぼくのことを知らないくせに失敬な! と思ったりするが、冷静かつ客観的に自分を眺めてみれば、たしかに人前で悲しみに打ちひしがれたり感涙にむせんだりすることはほとんどない。ぼくよりも一回り若い塾生の男性などは、ある一件で昔ひどい仕打ちを受けた年配の男を恨み続けていたが、ある講演会でその男の苦労話を聞いて涙が止まらなかったと言う。ぼくには考えられない出来事である。どんな事情があろうとも、その男の話を聞いてみようと心境が変化することはありえないだろう。


強がって人前で涙しないのではない。安っぽく感極まるのが性に合わないのである。ぼくだって――可愛くはないだろうが――一人でいる時に胸をキュンとさせていることもあるのだ。たとえば、詩集『海潮音』に収められている「わかれ」という一篇を口ずさむとき。

ふたりを「時」がさきしより、
昼は事なくうちすぎぬ。
よろこびもなく悲まず、
はたたれをかも怨むべき。
されど夕闇おちくれて、
星の光のみゆるとき、
病の床のちごのやう、
心かすかにうめきいづ。

経験と二重写しになるわけでもないのに、青春時代からこの詩をはじめとする諸々の詩篇に何度も喉元が詰まるような思いをしてきた。詩人ヘリベルタ・フォン・ポシンゲルがぼくを動かすのではない。英独仏伊の言語に長けた訳者上田敏の、原詩そのものが精緻にして細微な日本語で紡ぎだされたかのように思わせる語感の天才ぶりに、過敏な感応を禁じえなくなるのである。

話を急転直下で現実に戻すと、昨今とみに喜怒哀楽のバーゲン現象が目につく。安直なコントや漫才に満点を与えるほど大笑いする同業芸人ども。有名女優の離婚騒動に「腰が抜けるほど驚いた」という、某テレビ司会者の情けなさ(そもそも芸能人の結婚には離婚が内蔵されているのではなかったか)。ぼくの周囲でもいい大人が、実態を的確にとらえることができず、また、その実態に見合った適正感度で表現できずに、ギャルのように「ウッソー」「スゴーイ」「サッスガー」を連発している。そんなに安売りをしていると、ここぞという時の悲喜こもごもや感動をどのように表わせばいいのか。情報化社会のデジタルリズムに流されぬよう、ふだんからしっかりと感情センサーの手入れをしておかなければならない。

投稿者:

アバター画像

proconcept

岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

「喜怒哀楽の大安売り」への2件のフィードバック

  1. 岡野先生のおっしゃることは非常にわかります。
    結構私も喜怒哀楽の大安売りしています。
    しかし、どうせ人生よくあっても40年そこそこ泣いたり笑ったり怒ったり、
    そのほうが人生充実するかもですね。

  2. 昔は箸が転んでも笑う年頃と少女を形容したものですが、最近は中年から熟年にかけての男性が握っているボールペンを落っことしても一同大笑いするようになりました。どこにでもある三文オペラのような道徳訓にこれ以上感動できないというくらい目をパチクリさせ、手に汗して身を震わせる。本人はマジですが、傍目に見ていると滑稽きわまりないのです。佐藤さんの喜怒哀楽は、ぼくが見るかぎり、場の波長合わせの要素も多々ありそうですが・・・・・・。
    短い人生、どうせならイタリア人のように、「アモーレ、カンターレ、マンジャーレ(恋して歌って飯食って)」で大いにはしゃげばいいではないか、思い切り涙したあとにケロッと大笑いする。それもありです。しかし、イタリア人の誰もがそんな喜怒哀楽バカではないことも、重なる旅で知りました。原則として、人々は神妙に物を思い、諸々の世事を真剣に考え、冷静にして沈着です。いや、日々の仕事や生活場面では無為に流されはしないのですね。そういう眼差しと行ないを基調としているからこそ、ハレの日に喜怒哀楽を大きく増幅することに意味があるのです。喜怒哀楽のバーゲン現象は、景気低迷にもかかわらず、毎日が祭りのようになってしまった極楽ニッポンの一面を表わしているのかもしれません。(やや生真面目なフィードバックでした。)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です