メディア依存の日々

新聞を購読せずにインターネットだけで情報を得ている若者を何人も知っている。多様なリアルタイム情報の提供という点に関して、新聞はインターネットに太刀打ちできなくなった。一ヵ月の新聞購読料およそ4,000円。デフレの時代、この金額は学生にとっても若い社会人にとっても決して小さくはない。では、テレビはどうか。テレビならインターネットに対して好勝負ができているのではないか。いやいや、このように問うこと自体が白々しい。残念ながら、20世紀半ば生まれのぼくでさえテレビの大苦戦を認めざるをえない。

手早く何かを知りたいとき、情報源としての新聞もテレビもかつての輝きを失ってしまって久しい。今から30年ほど遡れば、まず百科事典が色褪せ、次いで年鑑の類い、季刊誌、月刊誌、週刊誌の順で優先度が低くなっていった。もちろん、緊急を争わなければ、つまり、何事かをじっくりと楽しんだり学んだりするのであるならば、そして対象が普遍知に近いものであるならば、ぼくが所有している1969年版のエンサイクロペディア・ブリタニカなどの百科事典にもいくばくかの使い道は残っている。古書も古い雑誌も、鮮度を競わないのであれば、何がしかの価値を湛えている。

昨日、「さかな検定」が実施されたとテレビのニュースで知った。ふと先週の金沢での晩餐を思い出す。塩焼きに田楽焼き、刺身に天ぷら、ぬたに調理した岩魚イワナ三昧を満喫した。一昨日はテレビでウグイ料理を見た。自宅に「川魚図鑑」などというシャレたものはない。ほんの少しばかり知っておきたいと思っただけで、図書館や書店に行くほどの動機づけもない。こうなると、やっぱりインターネットの簡単検索に頼らざるをえない。イワナがサケ科でありウグイがコイ科であることを知り、ついでにあれこれと読んでみる。ほんのわずか数分で、ついさっきよりももうひらかれている。


「マルチメディアの時代」ということばがまだ生きているとしても、もはや群雄割拠の様相ではなくて、インターネットが主役に躍り出ている状況である。ぼくの世代より上ではおそらく新聞、テレビが依然として主力情報源だろうが、下の世代ではほぼインターネットが拠り所になっている。もちろん、人間を有力情報源にしている人たちもいる。人はとてもありがたいソースだ。但し、情報の確かさ、ソースの信憑性については気をつけておかねばならない。人はよく勘違いするし、錯覚したまま情報をリレーする。そして、その種の誤謬推理はインターネット上でも頻繁におこなわれる。

情報、あるいは広く知識や事実のすべてをぼくたちは記憶に止めるわけではない。ほとんどの情報は一過性で、記憶領域での滞留時間はすこぶる短い。この意味では、テレビも新聞もインターネットも同質的である。これらのメディア間の特徴的差異は、情報の発生から発信までの時間の遅速にある。裏返せば、急がず慌てないのであれば、半日ないし一日遅れの新聞で十分なのだ。いや、新聞にはブログよりも信頼性の高そうな論評や解説が掲載されるから、知るだけでなく検証するきっかけにはなる。

周囲の人々に始まって、新聞、テレビ、インターネット、雑誌、書籍、講演・セミナーなど多種多様なメディアが情報生活を彩り、これらメディアなくして社会と自分の位置関係を見極めることはむずかしくなった。かつて世間のことは何一つ知らずともせっせと本を読んでいればいい時代もあったし、新聞も本も読まずとも古典落語の与太郎のように雑談を情報源として日々を送れる時代もあった。もはやぼくたちに選択の余地はないように思われる。ぼく自身のメディア依存の日々も当分続きそうだが、時代や世界に最先端で向き合っているのは五感にほかならない。どんなマルチメディアの時代になろうとも、マイメディアとしての五感の感度が問われるのだろう。 

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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